無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

カフェオレを零して落ち込むのは母親のため。

さっき「よっしゃブログ書こ!」と思った瞬間、飲んでいたカフェオレをこぼしました。

「あー!勿体ない!」と思うと同時に自分を責めるのは、母親が悲しむ顔を見たくないから。

 

母親のお金を使って、母親を「大事にする!」と思った時に「お金は大事に大事に使わないといけない。だから、無駄遣いをした私を罰しないといけない」そんなふうに自分のことを責めて罰するのです。

 

最近読んだ漫画の中に「人のことはダメ出ししてはいけないのに、自分にはダメ出ししていいの?」という問いかけが書かれてあり、「たしかに!」と思った記憶があります。

「自分へのダメ出しは虐待」だと、はっきり書かれていました。

 

そう、自分のことはめちゃくちゃ責めるのです。

「何でもっと早くやらなかったの!」「何でもっと人に優しくできないの!」「あなたは本当にダメな子ね」って、多分自分が一番自分を罰して「良い行いをする立派な自分に育てたい」んですね。

 

だから、あらゆる角度から自分を罰して「ほら!あなたはなんてダメな子なの」といちいち証明しようとしている。

 

それが、彼氏が出来たり身近な存在ができたときに、自分と同じように罰してしまうのは、自分を投影しているからなのでしょうか?

 

「心よ、私が彼氏や他人を罰してしまう時に何が起こっているのでしょうか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それは自己投影もありますが、もっと重要なのは、あなたが自分を罰している時に何を感じて相手を罰しているのか、ですね」と言ってきます。

 

私は、友達にはわりと「いいよいいよ~」と結構気にしないでいれるのですが、彼氏が友達と同じことをすると「何でお前はそうやねん!」と鬼のごとく怒ってしまいます。

 

友達には「分かるよ~私もそうやもん」と共感できるのに、なぜ彼氏には「何お前はできへんねん!」とキレてしまうのか。

(家族、特に母親に対してもそうですね。妹には友達の距離感なので、あまりキレることはありません)

 

「心よ、私の中で、友達と彼氏、母親と他の家族に違いはあるのですか?」と聞いてみます。

すると心は「あるとしたら、あなたが相手に対して自分を投影しやすいのは、あなたが相手を認めた時に“私を理解してくれるのはあなたのみ”という感覚を抱くかどうかです」と言ってきます。

 

「心よ、その感覚は何の違いで抱くのですか?」と聞くと、心は「あなたがもし誰かに愛想を尽かされた時に相手に対して抱く思いは、あなたの支配の感情と関係がある」と言ってきます。

 

「心よ、支配の感情とは何ですか?」と聞いてみると、心は「支配されている時にあなたが感じる罪悪感や負の感情というのは、相手から流れ込んできたものもあれば、自分を罰することで自己発電している節もある。だから、支配されている時にこそ“相手を責めるは自分”という感覚を認めた方が良い」と言ってきます。

 

「心よ、相手を責めるのは自分という感覚を認めると、どうなるのですか?」と聞くと、心は「そこにあなたの意志がどれぐらいあるのかどうかが大事なのかもしれません。相手を責めたくなるのは母親であり、あなた自身は何も感じていなかったとしても、怒ることで相手との関係を悪化させて、あなたの居心地が悪くなるようなことがあると、それは支配と考えても良いのかもしれません」

 

「心よ、この場合の支配の内容を教えて」と心に聞くと、心からはこんなイメージが返ってきました。

昔読んだ芥川龍之介の『地獄変』の牛車のイメージです。

 

「心よ、このイメージが表すのは、私が親のために自己犠牲をしているということですか?」と聞いてみます。

すると心は、「それはそうですね、しかしもっと重要なのは、あなたが親のために犠牲を払っていると思っていることこそ、親のための犠牲なのである」と言ってきます。

 

親は、私の人生を犠牲にして、自分のやりたいことや望みを叶えているのかもしれない。

だけど同時に、親の犠牲になる私を見て、親自身も自己犠牲で苦しんでいるのかもしれない。

 

大嶋先生の支配者理論ですと、支配者は何の感情も持っていない。

支配者は支配するのがお仕事なので、淡々と支配するのです。

 

だから私が「両親が苦しんでいる」と想像すればするほど、私自身が苦しむ結果になる。

だって、共感で打ち消すことが出来ないんだもの。

 

「心よ、私が母親の支配から逃れるために、今必要なことは何?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたが毎日楽しく過ごすことなんですけれど、もしあなたが今、母親に罪悪感を感じているのであれば、それは母親に対する申し訳なさというよりも、あなたが自分で自分の首を絞めていることに気づくべきである」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ罪悪感を感じることが自分で自分の首を絞めることに繋がるのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが罪悪感を感じるたびに、自分の生活を犠牲にして母親に尽くそうとしてしまうから」と。

 

要は、親孝行をしなければ!と焦れば焦るほど、残りの人生を親に捧げてしまい、親が死んだあとの自分は今の親の年齢であるとすれば、その頃にはもう何も自分の好きなことに取り組むエネルギーや活力が残っておらず『親のために人生を生きた』となってしまうからなのでしょう。

 

大嶋先生の『愛』の話に、「親子の愛は自己犠牲」というのがありました。

子供は、親の自己犠牲を自己犠牲で返す必要があるのか?

そこから何かが生まれるのか?

自己犠牲を自己犠牲で返している内に、家族との閉鎖的な環境から抜け出せなくなって、外の人間関係が築けないような気がしてきます。

「だって、親を無視して生活できないもの」と家族に献身的になればなるほど、外の世界との繋がりが薄くなる感じです。

 

昨日まで「母親のお金を使う」ということに対して、半端ない罪悪感がありました。

その罪悪感に対する呪文を、昨日の大嶋先生の呪文講座の要領で作ってみると『羊羹で縄跳び』というタイトルができました。

 

『羊羹で縄跳び』と「母親のお金」を統合するとできたスクリプトは、「羊羹は道具じゃなくて、食べるもの!美味しくいただきましょう!」でした(笑)

 

私は、母親からもらったものをやたらめったら大事に保管して捨てられません。

それで物が増えていっていたのですが、5年ほど前に一度実家に帰った時に、一気に小学生の頃の学習机を捨てました。

 

その時の父親がすごく機嫌が悪かったのですが、後から考えたら、学習机って高いし、しかも学習机を捨てる人って実はそんなにいないのではないか?ということです。

 

当時、本当に私の実家にある学習机が「邪魔やなあ」と思っていたのは、その机には本当に嫌な記憶しかないこと。

 

母親に冷たく怒られたこと、夜中まで宿題が終わらずに父親に怒鳴られたこと、抜毛症や眠れない悩み、妹との喧嘩…私は本当にそれを捨てたかったんだけど(物には記憶が宿る)、親にとってはそうではなかったのかもしれない。

「捨てたい思い出」と思っていたのは、私だけだったのかもしれない。

 

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芥川龍之介さんは、『鼻』が一番好きな話だったりしますが、今回ブログに出てきた『地獄変』を貼っておきます。

後味悪いかもしれませんが、真の芸術を追うとこうなるのかもしれないし、私にもそんな側面があるのかもしれないと考えさせられる物語です。

 

 

 

お母さんに謝らないと。

私の一番古い記憶の中で「母親に謝る記憶」というのがあります。

 

何が原因だったのかは分からないのですが、祖母に手を引かれて「お母さんに謝りに行こう」と玄関を出るのです。

 

玄関を出ると、近所のマルチーズを外で飼っているお家の前で、母親と妹が楽しそうに喋っています。

 

私は祖母に言われた通り「ごめんなさい」というけれど、母親は泣いているのか怒っているのか私には分かりません。

 

私は、祖母のことが好きでした。

 

だけど、次第に「私の味方をしてくれない祖母」に嫌悪感を抱くようにもなりました。

 

私はただ、自分の味方が欲しかっただけなのかもしれない。

 

もし今、あの頃に戻ったら、私は自分に何を言うだろうかと考えます。

 

私はきっと、あの頃の自分を見た時に「何か悪いところはなかったか?」「改善できる箇所はないか?」と探し出そうとするでしょう。

 

祖母は認知症になりました。

その前にリウマチになったり、鬱病になったり。

 

私は後を追いかけるように鬱病になり、ヘルニアになり、遺伝子の影響か分からないけれど、私もリウマチ因子が通常より高かったりします。

 

私は、家族が大嫌いでした。

 

そもそも会話がない家族だし、私は「いらない子」だとずっと思っていました。

 

私は外に居場所を探しに行ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 

母親から何度か手紙をもらったことがあります。

その手紙はすぐには読めず、10年後に読んだりしていました。

 

誰かに干渉されるのが怖かった。

なぜなら、そこに母親の影を見てしまうから。

 

私が裏切ったり泣かせてしまったりした母親は、もう私の味方ではなく他の誰かの元へ行って私を悪者にするのだと、本気で思っていました。

 

もしこの世にタイムマシンがあるのなら、私はまずこの世に生まれてこなかったことを選択するのかもしれない。

 

それぐらい世の中を憎んで、家族を恨んで、自分自身を責めて生きてきました。

「私は非難されて当然の存在」だと、自分で自分を戒めるのです。

 

ある日、私は母親と大喧嘩しました。

その時にはからずとも、「私と母親は似てるんだから!」と泣き叫びました。

 

私は当時、母親より父親に似ていると思っていましたし、母親も全く自覚はありませんでした。

だけど、ヒステリックに叫ぶところやすぐ泣くところは母親に似ていると思っていたのです。

 

私は、自分が家族の一員じゃないと思っていたけれど、その気持ちの裏側にあるのは「誰よりも家族の血を濃く受け継いでいる」ということだったのかもしれない。

 

「意識以外が無意識」だとして、私が考える「ドット」は「母親は私を嫌っている」。

 

だけど「ドット以外が無意識」だから、「母親が私を嫌っている以外は無意識が働いている」と考えると、ますます母親に似てきている自分が見えてきます。

 

私は、自分が母親に似ていることを認めたくなかった。

なぜなら「母親は妹のもの」と思っていたから。

 

どこに行くにも何をするにも、妹は母親を選び、私は「お父さんが良いよね」という暗黙の了解。

 

だいたい今日のブログは初っ端から書いててキツかったけど、あかん、普通に気持ち悪い思いが自分の中に広がっていきます。

 

確かに遺伝的に、私は長女なので父親の血を受け継いでいます。

 

私は自分では父親の呪いにかかっていると思っていた。

 

だけど、本当に認めたくなかったのは、私は「家族の誰とも似ていない」ということだったのかもしれない。

 

自分で書いていて混乱してきたので、心に聞いてみます。

 

「心よ、私が家族の誰とも似ていないってどういうこと?」と聞くと、心は「それはあなたが思っている以上に家族との血が濃いと、あなたの中で何か問題がない限りは、あなたの中で家族が生き続ける」と言ってきます。

 

「心よ、もう少し分かりやすく説明して」というと、心は「私はあなたが家族を恨んでいるようには見えません。なぜなら、あなたは自分の中で消化されつつあるから。家族の背後にある無意識の存在を信じて、家族はあなたが思うほど敵ではない」

(ものすごく文字を打つのに抵抗があるのは、何故なんだろう)

 

「心よ、家族を恨んでいる私とは何ですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが作り出した幻想です。心はあなたの望む方へと導くために、あなたの中に作り出されたその幻想を解く術を教えます」

 

「心よ、その幻想を解くと私はどうなるのですか?」と聞くと、心は「それはあなたが自由に羽ばたける足枷を外した時のように、あなたが誰かのしがらみから解放されたら、純粋無垢な自分自身の能力を信頼出来るでしょう」と言ってきます。

 

なんか心の声がしっくりと来ないんです。

「心よ、それはどうしてですか?」と聞くと、心は「あなたが信じたいものだけがこの世の全てではなくて、あなたが信じられないものがこの世の真理」とか言ってきます。

 

なんか心にディスられてる気分です(笑)

支配に邪魔されてるのかなあ?とも思うのですが、心は「そんなことはない。あなたは支配から解放された時に一番やりたいことをやりなさい」と言ってくる。

 

「心よ、私がやりたいことって何?」と聞いてみると、心は「それはあなたが母親に嫉妬されること」と言ってくるのです。

緊急でブログ書いてます。

今、緊急でブログ書いてます。

なぜなら、電車の中で読んでいた漫画に感化されたのか、それとも昨日のFAPの効果なのか分からないけれど、「涙が止まらない!」。

(発作か?(笑))

 

理由は、一つは「お金のトラウマと母親」です。

母親に「申し訳ない」という気持ちが大きく、ひたすら頭の中で「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と呟いている状態である。

 

そんな時に、もう一つの大きな感情の波が生まれてきたのです。

 

『私は人生をやり直したい』

 

この気持ちはもちろん、この長い人生の中で何度も考えたことがある。

だけどそれは、どちらかというと悲愴に浸っているというか、自分の悲劇を嘆いているようで喜んでいるようなそんな悲劇のヒロイン的な感情であった。

 

だから、今、この湧いてきている『人生をやり直したい』という気持ちは、「もっと家の家庭がこうだったら…」「もっと両親が話を聞いてくれたら…」と確かに思うけれど、私の人生はどれだけ遡っていっても、救いがないのです。

 

それは大きなトラウマがあるとかではなくて、逆にトラウマが見当たらないのにずっと人生が苦しいことなんです。

 

さっき、保育園の年少さんまで遡りましたが、その時点ですでに病んでいました。

その頃からしんどくて息苦しくて、じゃあ私は一体いつからこの苦しさが続いているのかと考えた時、もしかしたら「生まれた時から」かもしれないんです。

 

トラウマというのは、状況記憶と感情記憶が適切に処理されずにバラバラになった状態なので、覚えていないのだと思います。

 

だから、覚えていないことを特定しようとしても分からないし、何が真実なのかももう確認しようもないから、今私に出来ることは「ちゃんと自分の能力を認めて、生き直すこと」なんです。

 

私には、知能のコンプレックスがあります。

簡単にいうと、私は「もっと賢くなりたかった!」と思っています。

IQ200ぐらいは欲しかったですね。

 

だけど、それって自分の知能(賢さ)を認めていなかったから、ずっと自分がバカだと思っていたんですね。

 

だから私は大嶋先生にも質問したし、そうしたらあの境界性知能の話が始まったんです。

だけど、私の知能のコンプレックスというのはまだちょっとあって、それが何なのか?と思った時に、今回の『人生をやり直したい』に繋がるのです。

 

私は本当に、頭が良かったんです。

脳梁の働きが良かったというか。

 

この帰り道にずっと思い出していたのが、ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』を3日で読んだ私が、今はその5分の1の分量の大嶋先生の書籍を最短で1か月~3か月かけて読んでいる不思議。

 

昔は一日に本を3冊ほど読んでいたのに、あの頃の私はどこへやら。

 

全く文字が読めないんです。

 

だけどそれも『自分の能力を認める』と思った時に、なんだか一日で何冊も読破できるような、そんな不思議な感覚が起こってくるのです。

 

そう、もしかしたら、これが俗にいう「嫉妬にやられている」状態なのかもしれません。

 

大嶋先生の「怒りで知的リミッターを解除する」はなかなか良かったのですが、私は何かに怒っていたのか、それとも自分に怒っていたのか。

 

「心よ、私は自分の能力を封印していたのでしょうか?」と問いかけてみると、心は相変わらず「そうですね、あなたが封印していたのは母親との記憶です」と言ってきます。

 

そうです、先ほどまでの強烈な『人生をやり直したい』衝動は、私が21歳の頃に家出した時のことが何度も頭で反芻されていて、とても苦しかったのです。

 

ある夜、母親に最寄り駅まで送って行ってもらった時、何かで大ゲンカしていて(常に高校の時から大ゲンカしていたけれど)「もう家に帰らないから!」と捨て台詞を吐いて本当に帰らなかったんですよね。

 

それから8年間、私は一人暮らしをして、その間に出来たトラウマが「お金のトラウマ」。

 

母親は、毎月私の口座に1万円振込みます。

私は正社員じゃなくてアルバイトで、大阪の最低賃金で働いていたものだから、安いマンションだったけど微妙に生活費が足りなくて、月末は必ずおろしに行っていたんです。

 

でも、一人暮らしの年月の半分は彼氏を取っ替え引っ替え同棲をしていたから、そんなにずっと一人ではなかったはずなんだけど、(多分8年間の内の1年間ぐらいだけが一人だったんだと思うけど)何だか強烈な孤独の感覚が私の中に残っているのです。

 

だけど、実家にいても一人だし、一人暮らしをしたらしたでお金がなくて「お母さん、ごめんなさい」とずっと心の中で呟きながら、毎晩98円のポテトチップスと具のないうどんを食べていたんです。

 

それがもう本当に今思い出しても悲しくて悲しくて…

だから私は、月収が50万円を超えても「お金がなくなる恐怖」が昨年まであったのです。

 

その恐怖がなくなってドーン!と使ってしまった時、私はヘルニアになって、その後今のサロンに移るためにどんどん稼げなくなって、再び「お母さんごめん」と「お金がなくなる恐怖」を味わっているわけなんです。

(恐ろしや)

 

それと自分の「能力」がどう関係あるのかというと、やっぱり「自分の能力に見合った仕事をしていない」となるのです。

 

じゃあ、私の能力に見合った仕事って何なんだろうとなった時、心に聞いてみます。

「心よ、私は何の仕事が向いているの?」と聞いてみると、「写実画家」と答えてきます。

そうでしょうね、私は知能の中でも特に知覚推理と処理速度が高いので。

 

「心よ、それは現実的ではないので、もっと稼げる職業はないのですか?」と聞いてみます。

すると心は「それなら教師が向いていると思います」と言ってきます。

 

いやいやいや、と思って(それは小学生の頃にめちゃくちゃ慕ってくれてた子に「教師向いてるよ!」と言われてたからでしょ、と思います)「心よ、教師って稼げるの?」と聞いてみると、心は「あなたが知能のコンプレックスを持っているのは、あなたのせいではなくて母親の影響」と言ってきます。

 

「心よ、母親のどんな影響?」と聞いてみると、実家にいた頃の嫌な思い出がさまざま浮かんできて、暗い気持ちになってきます。

 

「心よ、私に向いている職業はどんなもの?」ともう一度聞いてみます。

そうすると心は「あなたは向いている職業以前に、もっと自分に気を遣いなさい」と言ってきます。

 

「心よ、私は自分にどう気を遣えば良いの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが寝不足だから知能が下がったんでしょ」とさも簡単なことのように言ってくるのです。

 

「心よ、私の“人生をやり直したい”というこの強烈な感覚は誰のもの?」と聞いてみると、心は「それはあなたのものではない。あなたは偽りの快感から脱した時にそのような感覚になるかもしれないけれど、それは母親に入れられた“本当の自分を隠すためのもの”」と言ってきます。

 

まあ、何となくそう感じるところはありました。

2000文字書いておいて今さらあれですが、「泣く」ということは「発作かなあ」とも考えないことはなかったのです。

 

「心よ、本当の自分とは何?」と聞いてみると、「あなたが偽りの快感から抜けれらた時に見る世界は、他のどの世界よりも素晴らしいのかもしれない。なぜなら、まっさらな気持ちで見る世界は、あなただけのものであり、母親のものではないから」。

 

本当は、心に「このブログは今日書かなくて良い、明日書け」と言われていて、今ほのかに「なるほど、たしかに明日にしておけば良かった」とちょっと後悔しているところです(笑)

天の川を渡ると見えてくるのは彦星じゃなくて私自身

天の川というと、一年に一回しか会えない織姫と彦星がその川を渡って出会うとか出会わないとか。

 

雨が降っていたり曇っていると天の川を渡れないので、また次の一年まで織姫と彦星はデートすることができない。

 

もし、一年に一回しか会えない恋人がいたら、私は寂しいのだろうか?と考えてみた。

じゃあ、私は何のために彼氏に会いたいと思うのだろうか?

 

織姫と彦星じゃなくても、一年に一回しか会えない友人がいたとしたら、私は寂しいと思うのだろうか?

私はなぜ「友人に会いたい」と思うのだろうか?

 

もし、人が人に「会いたい」という感情をなくしてしまったとしたら、私はそれはそれで良いのではないかと思うけれど、「感動」をどこで感じるのかというと、やはり「人とシェアした時」ではないのだろうか。

 

誰かと今の自分の気持ちをシェアした時に、「ああ、私はこの世の中でひとりぼっちじゃないんだ」とそんな感覚が自分の中に広がります。

 

そうやって、誰かと繋がっていることを確認すると、自分の孤独が薄らいでいく感じがして、発作が凪になっていきます。

 

「誰とも分かり合えない」というのは、心のどこかで人との交流を求めているから出てくる言葉なのかもしれません。

本当にマジで「どうでもいい!」と思っているのなら、そんなことすら思わない気がします。

 

だから、寂しがり屋の人は、誰かを求めては裏切られ、そして自分もてのひらを返したようになってしまうから、だからどこかで人を信用できなくなってしまう。

 

私は、ものすごく人を信頼し過ぎてしまう人でした。

 

ホルモンの乱高下で言うと「オキシトシンバソプレシンの乱高下」で、人を信頼しては「裏切られた!」という快感を感じたいのか、心のどこかで粗を探している自分もいました。

 

もし、人が本当に信頼できる人なのであれば、私はこんなにも苦労していない!と心のどこかで求めていて、「私が人を信頼できないのは、あなたの悪い行いのせいだ!」と罰しては相手に好かれようと努力する矛盾した自分がいました。

 

そうなることで、ますます人を信用できなくなって、そうしていつの間にか私のまわりから人がキレイにいなくなってしまうのです。

 

私が破壊しているのか、人を破壊するように仕向けているのか。

そもそも自分の人選が悪いのか…。

 

そんなことを考え出すとキリがないのですが、だからか私の人間関係は見事なまでに「過去がない」です。

 

私は、ただ今にだけここに存在していて、今までに関わってきた人というのは、いつの間にか縁が切れて消えていきます。

それが憎しみ合ってという時もあれば、自然と連絡を取り合わなくなる時もあるし、互いに何か思って拒絶し合う時もあります。

 

人間関係というのは本当に難しいなあと思うのは、人のことを考えて発言すればするほど「違う!」と怒られてしまうこと(笑)

いやあ、本当に的外れになってしまうのですよ、相手のことを考えた発言って。

 

なんで的外れになっちゃうのかというと、多分、誰かを想像して答えているつもりが「自分基準」にして考えてしまっているからかもしれません。

 

その「自分基準」を排除するのにはなかなか苦労がいって、「関係性を無にする」とか「呼吸を合わせる」とか、大嶋信頼先生のブログの中ではたくさんその手法が出てきます。

 

だけど私が一番なるほど!と思ったのは、「〇〇の背後に無意識が働いている」ですね。

これ、本当に効きました。良くも悪くも(笑)

 

これを目の前で唱えて、相手が突然キレて席を立つこともあれば、その後仲良くなることもある。

本当に何が起こるか分からないけれど、相手の無意識を信頼して無意識が起動した瞬間に立ち会えるということは、とても感動を覚えることです。

 

「ああ、なんて美しいんだろう」と相手の無意識をリスペクトすることで、こちらの無意識も起動することができるのでしょう。

 

人と人がミラーニューロンで繋がっているのだとすると、私が今感じている感情は「目の前の人のもの」となります。

(もし今、目の前に人がいないのであれば、脳内で注目を向けた相手の脳を真似します)

 

ミラーニューロンで繋がった時に相手の不快感を受け取り、私は怒ります。

怒っても怒っても怒りが晴れない時に、私はもっともっと相手に対して抑えられない怒りを感じて怒りまくります。

それが相手のものだと知らずに。

 

私が抑えられない怒りを感じて相手を脳内で罵倒してしまっている時なんかは、よりそうなのかもしれませんね。

相手に罵倒されているから自分も相手を罵倒してしまうのか、脳内で相手が自分の奴隷化となっているから自分は相手に対して罵倒するのがやめられないのか。

(快感となっている)

 

もし、そうだとして、怒りは何のためにあるのかというと、大嶋先生曰く「しがらみカッター」なので、怒りを感じた時点で距離を開ける必要があるのかもしれない。

 

怒りを感じてまで我慢して一緒にいるメリットといえば、「相手に怒る快感を感じる」と偽りの快感のメリットでしょう。

 

だから、相手に怒りを感じた時は、まず「あ、距離が近すぎるんだな」と思って適切な距離感に戻します。

適切な距離感とは、大嶋先生曰く「リスペクトできる距離感」ですね。

 

で、じゃあ「天の川を渡ると見えてくるのはどうして自分自身なのか?」ということですが、心は「それはあなたが怒りを感じた時に相手に投影する怒りや憎しみや悲しみは、天の川ぐらいの距離を開けてちょうど十分良い距離感」と言ってくるのです。

 

なんのこっちゃと思って、心に「じゃあ、天の川ぐらいの距離感ってどれぐらい?」と尋ねてみると(心に聞く時は必ず「心よ」と頭につけてください)、心は「それはこの部屋の端から端まで」と言うから、「なんだ、そんなに遠くないじゃない」と思いました。

 

だけど、織姫と彦星からしたらハグできない距離感なので、「そりゃあ遠いか…」となります。

声は届くけど、相手の肌のぬくもりに触れることができない。

それって、孤独を感じるのかもしれないと思うのです。

(お、この記事の最初の話題と繋がってきたかも?)

 

「心よ、じゃあどうして“天の川”のイメージが必要だったの?普通に“怒り”でいいやん」と問いかけると、心は「それじゃあロマンティックじゃない。」と答えてきます。

 

「怒りにロマンティックも何もないやろ」と思って、心に「心よ、どうして怒りがロマンティックでないとダメなの?」と聞くと、「怒りがロマンティックであればあるほど、生きるエネルギーが湧いてくる」と言ってきます。

 

「心よ、じゃあロマンティックでない生きるエネルギーとは何なの?」と聞いてみると、心は「それは、嘘や欺瞞に満ちた醜い世界の投影」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ醜いの?」と聞いてみると、心は「人がキレイに生きようとした時に排除しがちなのが、怒りと憎しみと悲しみなんだろうけれど、私はそれらがあるから成り立つ感情があると思っている」と言ってきます。

 

「心よ、たとえばどんな感情が成り立つの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが感じる喜びや愛しさというものは、誰かに分け与えた時に怒りに変わることはないでしょう。なぜなら、そこにあるのは怒りではなく喜びだから」と言ってきます。

 

「心よ、怒りや憎しみや悲しみを人と分け与えるとどうなるの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが今まで押し潰されてきたように、嫉妬をエネルギーに変えると良い影響が生まれるかもしれません。だけど、ただの怒りや憎しみや悲しみは伝染していくと、あなたの中で不幸や不満に形を変える」と言ってきます。

 

「心よ、私が私のために幸せに過ごす方法は何?」と聞いてみると、心は「そうですね、誰かのことを気にせずに楽しく過ごすのにはコツがいります。たとえば、あなたが大切にしていた思い出を壊さないとか、誰かと共に過ごした時間を何度も反芻してそこから出れなくなった時、あなたは他の誰かより“自分の感覚”に注目してみると良いかもしれません」

 

心はそう言って、私にゆっくりとほほ笑みかけているような気がするのです。

 

お題は適当に決めて良い。

私は幼少期から「人が怖い」と思っていたわけではありません。

どちらかというと人が好きで、「人見知りしない子」だったんです。

 

だから両親がよく「知らない人についていって誘拐されたらどうしよう…」と思うぐらい、とても可愛くて、知らない人にもニコニコしちゃう子でした。

 

それがどこをどうやってこんなトラウマまみれの、というか「人が怖くて嫌い!」といつから思うようになったのか定かではありませんが、物心つく頃には常に陰鬱な気持ちと共に生きていました。

 

時には自殺したくなったり、時には暴言を吐いて当たり散らしたり。

多分ホルモンバランスがめちゃくちゃ乱れてる人だったんだけど、「生きづらい」という答を見つけるまでには相当な時間を要しました。

 

私が「心に聞く」を出来るようになってからは、かなり生きるのが楽になってきた気がします。

 

だけど、それでも時たま「息苦しい!」という不安感に襲われては、「息が出来ない!」と何かに溺れてしまうのです。

 

そう、何かに溺れている時と言うのは、藁をも縋る気持ちで必死になって人に助けを求めます。

「誰かに助けてほしい!」と思いながら、「誰かに助けを求めるみっともない自分」というものが頭の中に浮かんでは消え、どうしたら楽になれるのか分からないまま数日が経ってしまいます。

 

私はトラウマ治療を始めようと思ったきっかけは、きっと、自分が楽になった方法で救える人がいるのであれば、というささやかな気持ちだったと思います。

 

だけど、自分が「何とかできる!」という万能感にまみれてしまうのも、本当はとても怖いのです。

 

だから、いつも謙虚なふりをしてかわしているけれど、自分の本当の能力を認めてしまった時に、謙虚さを忘れてモンスターになって万能感を振りかざしてしまう自分が怖い。

 

そんなことを思いながら、意識と無意識の狭間で、私は「何が正しくて、何が間違っているのか?」を未だに気にしていることに気づくのです。

 

カウンセラーとしての正しい姿は?

私はカウンセラーになんかなっても良いのか?

 

そんな罵倒を自分の中で思い浮かべながら、私は淡々と日々自分の生活を過ごしているように見えて、本当は何かに怯えている自分をひた隠しにしてきたのです。

 

この場合の私の「能力」というのはカウンセリング能力ということではなくて、心は「あなたの無意識を信じる能力」だと言っています。

 

じゃあ、無意識を信じるなら、万能感にまみれることはないんじゃない?と心に問いかけてみると、心は「そうだね、それはあなたが感じていることをそのまま私に聞いてくださったら良いけれど、もしあなたが心に聞けなくなってしまった場合、それはあなたの暗示の力が強いから」と言ってきます。

 

「心よ、どんな暗示?」と聞いてみると、心は「そうですね、私が思うのは、あなたは暗示の力を利用して嫉妬をエネルギーに変えようとするように、母の呪縛から解かれるために私を利用すると良いでしょう」と言ってきます。

 

「心よ、今の私に母親の呪縛はありますか?」と聞いてみると、心はこう答えます。

「今のあなたにも過去のあなたにも、母親の呪縛はありません。なぜならそれは、あなたが見てきた世界の中で真実は何もないから」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ真実は何もなかったのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが思ったように生きるために誰かを犠牲にするのは違うと思っているから、だからあなたは自分が好きなように生きるのに抵抗がある」と言ってきます。

 

(ちなみにここで思い出しましたが、大嶋先生は常々「心とのやりとりはあまり人に言わない方が良い。嫉妬されるから」と仰ってるのを承知でブログの記事にしています。云わば「ブログの記事用の心」仕様になっています)

 

「心よ、それは支配ですか?」と聞いてみると、「はい、そうです」とあっさりと返ってきます。

 

心は、私の答えてほしいことをスルーして別のことを言ってくるけれど、それも何か無意識が起動する術なのかなあといつも感じています。

 

そう、無意識を起動させるのに、私たちは本当は「無意識」と思うだけで良いのです。

その「無意識」と思った瞬間にどんどんと自分の中のしがらみから解放されて、ますます自由に羽ばたく自分を想像してみる。

 

そこには、何かに気を遣ったり、誰かにおだてられて良い気になっている自分を押し殺したりと、そんなことをせずに「あるがままの自分」を受け入れられるのかもしれない。

 

そんなことを思うと、私はいつもこのブログで自分が何を書いているのか分かっていないけれど「分からないままである美しさ」というのがそこに存在しているのかもしれない。

 

もし、誰かが困っていて手を差し伸べてあげようとしても「自分なんか…」と思って、差し伸べられない人がいるのなら。

私はこう思うんです。

「誰かのために働きかけるより、自分を助けてあげなさい」と。

 

もし、誰かを「助けたい!」と思って苦しんでいるのなら、そこにあるあなたの心がもしかしたら苦しんでいるのかもしれない。

 

「誰かを助けたい!」と思う心自体は素晴らしく立派なものだけれど、「その人の無意識を信頼する」と思った時に、「あの人ならちゃんと立てる!」とそう信じていると「何も口出しする必要がない!」となるわけです。

 

私は、自分が腹立たしい理由の一つに「何でもかんでも人に喋っちゃう!」というのがあります。

もちろん人のことはベラベラ喋りません。

私が喋ってしまうのは『自虐ネタ』です。

 

自分の「これを話したら人に引かれてしまうだろう!」という部分を、惜しげもなくサービス精神で出してしまう節があります。

それで何度失敗したことか…。

 

それを言わなかったら「理想的な完璧な女」であったし「尊敬すべき優しい人」でいられたのに、わざわざ自分を下げるような発言をしてしまうのは、どんな私でも受け入れてもらえるという自惚れでもなく、自信のなさからの自虐でもなく、ただただそこに『無意識が働いている』となっていたのでしょう。

 

だから私は、そうやって自分が自虐をするたびに思うのです。

「相手の中に見る私の理想像というのは、私が作り上げた幻想なのである」

 

だから私は、自分が自分で作り上げた「理想の私」をぶち壊すために、自虐をして笑いを取ろうとするのです。

これは何てピエロ!と思うと同時に、見事に破壊欲動と性欲動に繋がっているなあと思うわけです。

 

ところで、今日のタイトルは今日の私に言っているのか、それとも本当にこのタイトルのブログなのかどっちなのかを心に聞いてみると、心は「どっちでもない。あなたの心はあなたの行く末を知らないから、何とでも言える。だから“適当に生きて見れば?”」とそんなことを提案しているらしいのです。

 

もし、世の中のみんなが適当ならば、私も適当に生きれたのかもしれない。

だけど、私が適当に生きられないのは、世の中にルールがあって社会の決まり事の通りに暮さないといけなかったり、誰かの約束を破ることがないように気を張ったり、ある程度の同調圧力が必要なんだろうけれど、私はその適度な同調圧力に過剰に反応してしまうのです。

 

それはもしかしたら昔のトラウマで「同調圧力を私に掛けるな!」と抵抗しているのかもしれないけれど、どちらかというと「緊張して息苦しい!」と思う気持ちの方が大きかったのです。

 

適当に生きれなくて苦しんでいる人へ。

約束を破っても人は“関係の可塑性”というのを持っていて、これは必ず真ん中に戻ってくる“恒常性”と同じような機能をしているのではないかと心は言っています。

 

だから、私のように遅刻魔であっても、誰かの話を聞かずに遮っても、社会のルールを破って人を傷つけるようなことがなかったら、そんな万死に値する!みたいなことにはなかなかならないので、だから安心して生きてください。

 

あなたが生きている世界は自由で美しい。

そうして、あなた自身も美しく輝くために、自分のために生きて、毎朝髪を梳かしてご飯を食べて、「適当に生きる」を実践してみると良いかもしれませんね。

つぎはぎだらけのラプソディー

ラプソディーインブルーが、バイト先のBGMとしてずっと流れていて、それを聴いているから「ラプソディー」なんて言葉が出てきたのかな?と意識の上では考えます。

 

でも、無意識は「ドット以外」が無意識だから、私の意識では到底理解できない範囲で何かが起こって「ラプソディー」なんて単語を出してきたのかもしれない。

 

私は昔、ピアニストになりたかったんです。

 

だけど、まず手が1オクターブも届かないほど小さい。

そして、練習がなぜだかどんどん億劫になっていって、最初は「天才児」だなんて言われていたけれど、いつしか怠惰になってしまって、それこそ「後の者に先を越される」なんてゆう状態になっていたのです。

 

だから、私はピアノが好きだけど、ピアノが嫌いでした。

 

私は、母親を喜ばせるためにピアノを上達したかったのか、それとも私自身が本当にピアノが好きだったのか、今になると分からないけれど、私は誰かが喜ぶ顔を見れるのがうれしいし好きだと思っていました。

 

そんな私は「誰かのために生きる」ということを美徳としていたのかもしれませんね。

 

「誰かのために生きる」ということをするために、自己犠牲をして自分の時間や自分のお金を相手のためにつかいます。

そうすると感謝をされるかもしれないけれど、私が望んでいるのは感謝ではなくて「対等な人間関係」だったんだと、今になって気づくのです。

 

私は「対等な人間関係」を築くのが、ものすごく苦手でした。

自分がへりくだることで相手を立てて安心する。

相手が安心したのを見て安心しているだけだから、それはただ単に「恐怖を回避した」だけに過ぎないのでしょう。

 

だから、ずっと若干居心地が悪くて、私は「いつか誰かに批判されるのではないか?」とそんな気持ちで過ごしていたのです。

 

なぜ、「へりくだること」で相手を安心させて自分も安心しようとするのかというと、「相手の感覚に依存している」からだと、大嶋信頼先生の『空気読みすぎさん』の本に書いてありました。

「相手の感覚を頼りに生きる」ことで「自分の心地良いが分からない!」となってしまう。

そうすると、私たちはみんながみんな「相手は自分のことをどう思って生きてるんだろう?」と考えているわけではないから、相手の感覚を感じない!という人にぶち当たった時に「空気読みすぎさん」の私は「あ!相手から好かれてない…」と思ってしまうのです。

 

どうして相手の感覚を中心に考えると「自己効力感が下がる!」となるのかというと、「人は優越の錯覚を持っているから」と大嶋先生は仰っていたと思います。

 

自己効力感とは「自分を認める!」ということで、自分を認めることで誰かが上とか下とかではなく「自分って素敵!」とそう褒めてあげることができます。

 

自分を褒めてあげることができると、誰かと比べることなく純粋に自分を応援できるのだと思います。

努力をしている自分が素敵だったり、オシャレを楽しんでいる自分が好きという感覚であったり。

 

「誰か」の存在を排除した時に、私は自分を信じれることができる。

(これを大嶋先生は「他者目線」と仰っていました。心の言う「邪魔」もそうなのでしょう)

 

私は「誰かの目」を意識した時に、途端に喋れなくなってしまいます。

そうすることで、私は誰かから守られているような感覚になります。

そう、これはきっと赤ちゃんに退行しているということで、「バブー!」と喋れないことで「お母さんが守ってくれる安心感」=胎内に戻る、ということなのかもしれません。

 

じゃあ、何で「喋れなくなる」というサインで表れるのかというと、それは一種の催眠状態と一緒で(暗示を掛けられているんですね。この場合は悪い暗示ですね)「あなたが喋れないことで、母親がいなくなると困るでしょ?」感を出しているようです。

(恐ろしい!私は喋りが大事な仕事をしているので、頭が真っ白になって喋れなくなるのは自分の分給を逃すことと同義です)

 

そう、私が喋れなくなる=社会に出て働けなくなる=収入源を失くす、という見事な相関関係が成り立つのです。

 

だから私は母親に足を引っ張られてるし、何度も「母親の影響でお金が稼げない」と心は言ってきます。

 

たとえば、お客様に対して怒ってしまったりする時に特にそれを感じますね。

(私はお客様の話を聞いてアドバイスをする仕事をしています)

 

今、唐突に思い出したのですが、インサイト・カウンセリングの最初の一年ぐらいは「仕事中にお客様にイライラしてしまう!」というのを題材として扱っていました。

そして、心に聞いていつも返ってくる答は「それは母親の怒り」です。

 

私は、母親と怒りポイントが全く同じというか、母親のために怒っているというか、「そのキレポイントは私の母親のもの!」と何度も認識することになるのです。

 

だけど、発作だからトラウマだから分からないけれど、認識していても怒りが止まらなかったりするのです。

 

「あれ?おかしいな。“母親の怒り”とちゃんと認識しているのに、相手への攻撃が止まらない!」となっている時に、私は「目の前の相手の怒りが伝わってきて私が怒る」という構図を思い出します。

そうするときれいに怒りが止まったりします。

 

あまりオススメをしてはいけないかもしれませんが、目の前の相手に対してイライラと爆発的な怒りを感じている時、目の前の相手に「あなた、今ものすごく怒っていますよね?」と問いかけると、だいたい相手の方は「そうなんです!なんで分かったんですか!」と仰って、相手の態度が軟化します。

そう、相手も「自分が相手がイラつく態度を取っている」ということに関して無自覚なのです。

 

その無自覚のイライラを受けて、私がイライラしてしまうのです。

 

それは、意識的な解釈での相手の態度を列挙すると

・無視をする

・語尾が強くなる

・パーソナルスペースに侵入してくる体の距離感

・なんでも「そうじゃない」と否定的

 

その他には、相手が笑顔なのにイライラする時もあります。

その場合は

・笑顔で「分かりました!」と言ってくるけど、納得するのが早く話が広がらない

・張り付いた笑顔なので気味悪く見えてしまう

・笑顔なのに口調が強い

 

とこんなふうに表れたりもします。

だから、私たちはもしかしたら脳のミラーニューロンでも受け取ってるけれど、私たちの脳に蓄積された膨大なデータから相手の些細な変化を読み取って、「あ、これは相手が怒っている証拠!」と集めて分析しているのかもしれない。

 

だけど意識レベルで「相手が怒っている!」と認識できないと帰属先がないから、「私が怒っている」ことにしてしまうのかもしれない。

 

何が言いたいかというと「まずは本当に自分が怒っているのかどうか」を疑うことから始めてみるのが一番ベストなのかもしれない、ということです。

だいたい相手の怒りを受け取っています。

それが遠く離れている母親かもしれないし、目の前にいる相手のものかもしれない。

 

だから「心よ!」とタグ付けをして心に問いかけることで、私たちはその思い込みの世界から外れて自由に羽ばたいていける。

 

何も怒ってはいけないとか自由であらなければいけないとか、そういう訳ではなく、もしあなたが今、理由の分からない「過去の怒り」に苦しめられているのであれば、「本当の怒りの持ち主」を探し当ててみても良いのかもしれない。

 

つぎはぎだらけのラプソディーとは、誰かの邪魔を排除して聞いた時に、自分が今まで旅してきた道のりを表すメロディーが聞こえてくるのかもしれない。

 

そうすることで、「怒り」も自分の一部だったけれど、その「怒り」さえも自分のエネルギーに変えることで、「私の怒りは悪いもの」から「私の怒りは誰のものでもなく自家発電の装置である」と私の心に浮かんできます。

 

ここまで書いて、ようやく猛烈に襲ってきていた眠気が吹っ飛んで、頭がシャキッと起きました。

 

「心よ、あの眠気は誰かの怒りを自分のものにしていたから?」

「そうではありません。あの怒りを手放した時に、あなたは片方の足を失ったような感覚になります。それが眠気であり、あなたが新たに生きる道を探した時に舞い戻ってくるのは、いつもそばで見守っている母を捨てて」

 

そこで思い出したのは、昨日のブログの「眠気と母親」です。

どうも私の睡眠時間や睡眠と母親が深く関わっているのかもしれませんね。

 

 

 

焦らないことで人生が好転する

今、ものすごい勢いで焦っているのは、何を隠そうこの私です。

 

私は、一度に複数のことを同時進行しがちです。

でもそれは同時進行が得意なのではなく、焦っているから「あれをやりながらこれをやって!」となりがちなだけであり、本当は多分ものすごい完璧主義のシングルタスクです。

 

たとえば朝の時間とかだったら、化粧をしながらご飯を作って服を着替えながらご飯を食べるなどが日常茶飯事で、「どうすれば時間短縮できるか!」が人生の目標になりつつあるところがあります。

 

だけど「効率よく行う」ということが果たして本当に効率が良いのか?

どちらかというと、もっと前々からちゃんと用意していた方が効率が良いのだと思います。

 

そう、私の慌てて何でも同時進行して終わらそうとしてしまうこの癖は「ギリギリまでやらない!」というところからきているのだと思います。

 

時間もそうだし、期限もそうだし。

宿題なんか期限が過ぎても終わっていないことが多いです。

 

私は昔、かなりの遅刻魔だったし、時間に間に合う方が稀というか、まあほぼほぼ時間に間に合っていませんでしたね。

 

それで常日頃から「余裕で時間に間に合ってコーヒーブレイクするような女子」を目指しているんだけど、どちらかというとコーヒーブレイクの方を先に済ませてから用事に取り組むので、後が全然つかえてしまっているんですね。

 

「コーヒーブレイクしないとやる気が出ない!」というのは、恐らく血糖値を上げて緊張感を高め、そしてやる気のエンジンを出すという手法なんだと思いますが、だからそれをするから普段ダラダラしちゃうんだって~というのもあります。

 

大嶋信頼先生の『トラウマちゃん』の本だったと思うのですが、普段緊張が高い人は肝心な時に力が抜けてしまう、というようなことが書かれていたと思います。

ここぞという時に力が出なくなっちゃうんですよね。

それで、力を出さなくても良い状況(リラックスしている時とか)に緊張しちゃって「全然心が休まらない!」となると、オンオフの切り替えだとか、リラックスしてリフレッシュするとかもできないから、どんどんストレスが蓄積していきます。

 

そうなると「常に緊張状態!」で、頭の中はバリバリ戦闘モードで高速回転しているのに、体が全然動かない!となって焦りと緊張がどんどん増していきます。

 

ちなみにこの状態で効いた遺伝子コードは「c9orf72の還元」(しーないんおーあーるえふななじゅうにのかんげん)です。

課題をこなしたいのに全然体が動かなくてYouTubeばっかり見ちゃってる!という時に唱える、なんかやる気が出て自然と体が動きます。

 

だから結局、もしかしたら「やる気が出ない」とか「タスクリストが全く終わらない!」というのは脳の炎症で、それが血液循環で血管を破壊して「上手く体が動きません!」となっているのかもしれません。

(あくまでナラティブで書いています)

 

脳が炎症を起こした時に、私たちの体の中で何が起こっているのか?

それを私たちはこの目で確認することが出来ないけれど、でも「体が思うように動かない!」とか「悪いことばっかり考えちゃう!」とかそういう症状として私たちの目に見える形で現れるのでしょう。

 

だから私たちは「自分の体が動かない!」となっている時に、自分の体にちゃんと注目してあげないといけないのかもしれない。

「あなたは本当にそれがやりたいの?」という問いかけと同じように、体は本当に正直なんです。

「やりたくないことは無理してやれない!」と、ちゃんと悲鳴をあげてくれるのです。

 

だけど「やりたいことなのにやれない」となっている時、脳の炎症を疑います。

その炎症はいつ起きたのか?なぜ起きたのか?どうすれば治るのか?をいちいち丁寧に心に聞いてみます。

 

そうすると、心に聞くだけでなぜか動けるようにもなったりします。

原因が腑に落ちると、体の中で絡まったコードがほどけるように、体がしがらみから解放されるのかもしれません。

 

例題として、私の心に聞いてみます。

 

「心よ、私はどうしてやりたいことに取り組めないの?本当にやりたいことではないから?」と聞いてみると、心は「それはあなたが本当にやりたいことではあるけれど、私はまだ今はそれをやらなくていいと思っています。なぜならあなたは自分を整える方が先だから」と言ってきます。

 

「心よ、私の何を整えたらいいの?」と聞いてみます。

そうすると心は「そうですね、まずはあなたの睡眠時間ですね。今、4時間ぐらいしか毎日寝ていないので、せめて6時間寝てください」と返ってきます。

 

「心よ、4時間しか寝ていないと何が起きるの?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたが4時間しか寝ないことで体の炎症が活性化してしまうので、なるべく早く寝ましょう。10時半です」と答えます。

 

「心よ、私のこの炎症はいつ起きたのですか?」と聞いてみると、「そうですね、この炎症はあなたが生まれた頃におっぱいを飲んでいると、母親の眠気があなたのストレスになっていたように、あなたは常に母親のために遅くまで起きてしまいます」と言ってきて、おお…予想していた答と違うがな…と思います(笑)

 

「心よ、なぜ私が遅くまで起きていることが母親のためになるのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが起きていることで、母親を安心させること」と言ってきます。

 

私はものすごく夜泣きがひどくて、母親が抱っこから降ろしてベッドに私を置いた瞬間に「ギャー!」と泣いていたそうですが、なぜ安心するのでしょうか?

「心よ、私が起きていると、なぜ母親は安心するのですか?」と聞いてみると、心は「母親はあなたが生きていることを確認するたびに、自分が道連れにして死ぬことを確認していた」というなんか強烈なワードが出てきました。

 

「心よ、なぜこのようなことが起きたのでしょうか?」と聞いてみると、心は「あなたは母親の暗示を背負っていきている。“自分が眠ると母親が死んでしまう”」

 

「心よ、どうして私が眠ると母親が死んでしまうのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたの希死念慮は母親が関係あります」と言ってきます。

 

「心よ、どう関係あるのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたが“死にたい”と思う時は高確率で“母親の支配”があります。その支配があるからこそ、あなたはこれまで生きて来れたけど、その支配から抜けた途端に強烈な支配の影響を感じるでしょう。それがあなたが今まで生きてきた地獄です」と言ってきます。

 

「心よ、どうすれば私はやりたいことができるようになりますか?」と聞くと、心は「そうですね、あなたがもし自分のやりたいことに取り組みたいと思うのであれば、“母親が嫌がること”をやればいいよ!」と教えてくれます。

 

「心よ、母親が嫌がることってどんなこと?」と聞いてみると、心は「あなたが母親を無視して生活すること。あなたが母親基準の生活を捨てること。あなたが妹と仲良くしないこと。あなたがあたならしく生きるためには、母親の影を全部捨てる必要があるけれど、もし今のあなたが母親の影がどんなものか分からないのであれば、覚えていてほしいのは“自由に生きることは何の罪悪感もないことである”」と伝えてきます。

 

私は、もしかしたら焦っていたこと自体が“母親のリミットを気にする”ということであって、「焦らない人生」を目指した時に、母親の支配から逃れるのかもしれません。