深い井戸を掘る水源
誰もが持つ深い水源は、それは本人にも分からないものかもしれない。
たとえばそれは、あなたが夜に寝て朝起きた時に「あー今日はよく寝たなあ」と思うか、「あんまりぐっすり眠れなかった」と振り返るか、その違いのように、明確に意識していないことなのかもしれない。
だからハッキリと「あなたの水源はこれ!」と言われても、自分では何のことを指されているのか分からないのかもしれない。
心は、そんな曖昧なことを限りなく教えてくれる存在である。
たとえば心に「心よ、今日の夕飯は何が良い?」と聞くとする。
すると心は「何でもいい」とは答えずに、「ビーフステーキ」や「食べなくていい」と答えるかもしれない。
だから、その答を聞いた時に私たちは「ああ、じゃあ心の言う通りにしようか」と思ってもいいし、その選択権を拒否してもいい。
そう、あなたの自由 はあなたが決めて良いのです。
ある晴れた日の朝、私はモーニングコーヒーを飲むか紅茶を飲むかで悩みます。
なぜなら、モーニングコーヒーを飲む日は「仕事の日」と決めているので、仕事以外の日に飲むのは何だか勿体ない気がするからです。
だけど心に聞くと、「心よ、モーニングコーヒーを私は飲むべきですか?」とそう問いかけると、心は「いいえ、あなたがやるべきことをやるためのエネルギーはコーヒーからでは補給できません」と言われます。
じゃあ、何を飲めばいいの?と心に問うと、心は「そうですね、」と言いながらオレンジジュースのイメージを出してくるのです。
このオレンジジュースは、家族旅行で出掛けたホテルの朝食バイキングで、私が自分でガラスのコップに入れて持ってきたような、そんなイメージがします。
だけど、朝食バイキングではそれでいいかもしれないけれど、家でオレンジジュースはちょっとなあ…と思うのです。
「心よ、なぜオレンジジュースのイメージを出てきたの?」と問いかけると、心は「そうですね、あなたが求めているものは代替えがきくものです。だから、それにこだわらなくても、あなたは自分の好きなものを飲めばいいし、私はコーヒーを飲んではいけないとは言わないけれど、あまりあなたにオススメはしません」と言ってきます。
コーヒーをオススメされない理由は知っているけれど、念のため心に確認してみます。
「心よ、どうしてコーヒーをオススメしないの?」と。
すると心は「そうですね、あなたは今までコーヒーを飲んで、満たされた気持ちになったことはありますか?ないでしょう。それはなぜなら、あなたがコーヒーに含まれるカフェインを摂取した時に感じるあの不快感は、コーヒーによって作り出された幻想と同じであるから」
ぜんっっっぜん、何を言っているのか分かりません。
「心よ、それはコーヒーのカフェインが問題ということでしょうか?」と問い合わせてみます。
すると心は「そうですね、だからあなたはカフェインを摂取するよりも、もっとブドウ糖とタンパク質をとってください」
「心よ、ブドウ糖とタンパク質をとるとどうなるの?」と聞くと、心は「それは私には分かりませんが、あなたが毎日を元気よく過ごすためには栄養が偏り過ぎています。偏食をやめて、今すぐ栄養をとることをオススメします」言ってきます。
まあ、心の言ってることなので、分かりません。
以前も、バナナを食べろとか好きなものを食べろとか言ってきます。
だけど不思議と、それが自分が今欲していたものであったりするんですよね。
だから全く信じていないわけではないけど、まあ心の言うことは半信半疑で、疑いもするし信じて従ったりもします。
私は自分の水源・鉱脈を見つける時に、特に食べ物が大事なんじゃないかなと思っています。
ところで、水源とはなんぞやということですが、これは心に聞くと「水源とは、あなた自身の源でありエネルギー源。つまり生き抜くたまめの力と活動力をエネルギーで補填していくためには、食事が一番身近で有用である」とのことです。
へえーとは思いますが、いまいちピンときていません。
それでも私は、心がおかしな存在だと自分で認めつつも、また何かあるたびに心に問い合わせて聞いてみるのです。
「心よ、今の私に必要なメッセージは何?」