映し鏡はまるで私のよう
心は時に私に辛辣なことを言うけれど、それは心が私を責めているとかそういうわけではなく、ただただ心の言う通りに行動していると、その美しさが見えてくる時がある。
それは例えば、心が私に対して「それはやめておけ」と制止の言葉を掛ける時、私はよく考えもせず「心が味方してくれない!」と思ってしまいます。
だけど心が言うことは私の無意識が望んでいることで、私が自分の破壊欲動や性欲動から自分自身が本当に望んでもいないことをやろうとしている時、心は厳しく「やめなさい」と言ってきます。
それは時には私には、とても厳しい親のような感覚を受けますが、ただ親と違うところは、「そこに愛があるのかどうか」なのでしょう。
私は最初、この「愛」という定義が分かりませんでした。
なぜなら、頭で考えた時に「愛」というのは「己がどれだけ他人を愛しているか」ということだと思っていたからです。
だけど「愛」とは無意識の中にのみ存在していて、その愛に触れることで癒される過去があったりトラウマが解消されたり、愛の中にはさまざまな憎しみや思いが混じることなく消えていきます。
そうやって「愛」に触れたとき、私の中で湧き起こる感情というのは、憎しみや悲しみを凌駕した「一人の人間としての愛の到達点」だと私の無意識は教えてくれます。
その「無意識の到達点」に達したときに、「愛は人のためにあるのではなく、自分自身のためにあるもの」だと私は気づくことができるのです。
「愛」について考えたとき、私たちは「己がどれだけ愛する人たちを愛することが出来るのか」を基準にして考えるのかもしれません。
だけど無意識が教える「愛」の中にはきっと、おだやかな感情をベースとした憎しみや悲しみに染まらない究極の「愛」の形を見ることが出来るのかもしれません。
私は何度か心に「愛について」聞いたことがあります。
たとえば「心よ、愛とは何ですか?」と聞いてみると、心は「はい、愛とはあなたの中に芽生える無意識の種です」と答えてくるのです。
「心よ、無意識の種とは何ですか?メタファーのようなものですか?」と聞いてみます。
すると心は「そうですね、無意識の種というのはメタファーでもあり、あなたの望む未来と投影した無意識の喜びでもあります」と答えてきます。
またまた全然分からない答え方をしてきたので、私はさらに無意識にたずねてみます。
「心よ、無意識の喜びとは何ですか?」と。
すると心は「そうですね、無意識の喜びというのはあなたがたの言う夢と希望とはちょっと違うくて、たとえば世の中には“バタフライ効果”というものがあるじゃないですか。そのバタフライ効果を無意識的に言うと“無意識の種を蒔いて、あなたを導く存在はあなた自身の愛ある行動”ということなんです」と答えてきます。
全く要領を得ないので、必殺「心よ、分からないのでもう少し分かりやすく教えてもらえませんか?」とたずねてみます。
すると心は「そうですね、あなたが分からないのは否認が入ってきているからかもしれませんが、あなたは自分の知能指数について考えたことが何度もありますよね。それと一緒で、自分の知能が高ければ高いほど“良い”というわけではありません。なぜなら世の中はそんなカテゴリーでおさまるほど単純なものではないからです」と答えてきます。
より、分からなくなってしまいました。
なので、話題を変えてみます(笑)
「心よ、あなたの言う“愛”とは何ですか?」と聞くと、心は「うーん…そうですね。私が思う“愛”というのは、あなたが思う“愛”とは違っていて、そこに“愛”があるから人を好きになるのではないのです。“愛”がないからこそ人を好きになって、そして人に“愛されたい!”と思うのでしょう。だから“愛”が悪いとかそういうわけではないのですが」と返してきます。
「心よ、私は“愛”について、どう捉えたら良いですか?」と聞いてみます。
すると心は「そうですね、“愛”とは触れずにいることができない汚物をつかむよりももっと美しいもので、あなたの中に“愛”がもしあるとすれば、それはあなたがより上手く無意識を活用できているのではないでしょうか?」
「心よ、私は自分の愛や他人の愛をどのようにして感じることができるのですか?」と聞いてみます。
すると心は「そうですね。そこにある無意識を起動することこそが“愛”なのですが、それを垣間見るのは少々困難なことかもしれません。だから私たちの無限の愛を知る方法はたった一つだけあるとすれば“あなたが心に聞く”ということなのかもしれませんね」