灯篭流し
海に死者の魂を弔って次々と流される灯篭は、とても幻想的な風景なんだと思います。
私は一度も灯篭流しを経験したことがないので、人生で一度は経験してみたいものです。
「死んだら私はこの世からいなくなる」というのは当たり前の事実で、私は幼少期から戦争の手記やおばあちゃんの戦争の話を聞いたりしていたので、死ぬのがとても怖かったのです。
広島の原爆の映画なども観て「いつ爆弾が私の真上に落ちてくるのかもしれない」と毎晩怯えては脅迫的にお祈り行動が増えていって、夜寝るのが遅くなっていた変な小学生でした。
そう、私は子供のころから不眠で、そして今でも寝つきは悪いままです。
だけど不思議と、自分や他人にFAP療法や催眠をやると、その日はぐっすりと眠れるのです。
どうして眠くなるのか?は、大嶋先生が著書で「記憶を統合しているから」と書かれていたような書かれていなかったような。
私は眠くなると、途端に機嫌が悪くなります。
なぜなら、自分の睡眠時間というものはとても貴重で、それを脅かすものは何者をも許せないからです。
慢性的な睡眠不足の私は、一度寝たら起きない、といことはなく、ゆっくり眠れる日でも何度も何度も目が覚めるのです。
だから、もしゆっくり眠れる時間があったとしても「どうせまた今日も寝不足なんだろう」と諦めている自分がいます。
さて、どうして私は寝不足なんだろうと、この人生でずっと考えてきました。
昔はお化けが怖かったんです。
怖いくせにホラーが大好きで、寝る間も惜しんで怖い話を読んでいると、今度はトイレに行くのやお風呂に行くのが怖くなってしまい、明け方まで眠れなくなってしまいます。
(なぜかものすごく右手の小指が反応しています。ブログを書いている時に指の反応があるのは初めてです)
そうして明け方になって明るさに安心した私はぐっすり眠れるのかというと、今度は「眠る恐怖」が襲ってくるのです。
これは何かというと、「悪夢を見る恐怖」ですね。
(またまたものすごく右手の小指が反応しています。痛いぐらいです。)
悪夢というのも私は幼い頃からしょっちゅう見ていて、悪夢がない生活の方が不思議なぐらいでした。
だから眠るのが怖かったし、眠ってからもずっと悪夢は続いていくのです。
そんな睡眠に疲弊する毎日を送っていたから、常に日常生活ではイライラしていて(あ、イライラしていたんですね。だから小指の反応がキツイのかなあ?)常に人に当たりまくっていたと記憶しています。
そして自分が眠れないからと自分のパートナーも眠らせないように巻き込んで、そしてお互いに眠れなくなって酷いことになっていましたね。
何がどれだけ酷かったのかというと、私は毎晩午前4時頃までグダグダと相手に電話して泣き喚きます。
だけど相手はちゃんと相手してくれて、話も聞いてくれる。
そうすると「相手に迷惑を掛けてしまった…」とひどい罪悪感に襲われてまた眠れなくなって希死念慮が出てくる。
希死念慮が出てくると辛くて、また午前4時頃まで相手に電話して相手のことも寝不足にしてしまって、その申し訳なさからまた…
という繰り返しだったのです。
これを半年~一年、いやもっとそれ以上繰り返していますね。
上の物語がだいたい最終形態だったので、それまでも同棲していた彼氏を巻き込んで、何だかなんだギャーギャー言って寝させないようにしていました。
で、今回は何の話なんだっけ?と思ってタイトルを見直して「あ、人の死についての話か」と思い出します。
(再度ものすごい小指の反応があります)
そう、私は自分では「死ねない」「死ぬのが怖い」という感覚がずっとありました。
特に火葬や土葬となった時に「もし生きていたら、どうするのよ!」と怯えている感覚が強いのです。
これは昔『世にも奇妙な物語』でそういう話を見たからだと私自身は記憶しているのですが、それにしても火葬や土葬にされたくない恐怖が強いのです。
私は今これを書いていて気づいたことがあります。
私は長年、自分では「死ぬのが怖い」と思っていたのですが、そうではなくて、火葬や土葬にされて生きながら焼かれたり、生きながら土に埋められたりするのが怖いのですね。
そうと分かれば今朝考えていたことが違うのかもしれませんが、今朝、私は今と同じように「死」について考えていました。
(「愛」の次は「死」の話なのか~)
私は自分が死ぬのが怖かったし、一生死ねないと思っていました。
死を迎えるその瞬間が怖くて怖くて仕方なかったんですね。
だけど、最近新しく普通の仕事(会社にお勤めする仕事)をしていて、今までフリーランスで孤独だったから何かにしがみついていたところがあるのかもしれないと思っていました。
もちろん私はフリーランスで一人で仕事を始める前も、こうやって今のように会社にお勤めをしていて、まわりに同僚と呼べる人がいてコミュニケーションを取る毎日だったんです。
だけどフリーランス時代に(一応今もフリーランスですが)トラウマをたくさん取りました。
たくさん取って、もう一度社会に出た時にどうなるのかな?と思って試してみたのが色の学校の時だったのですが、見事に撃沈して、やはり「人は怖い」と思ってしまったんです。
だけど今回、催眠スクリプトという私の強い味方が出来たことで、より意識を手放して無意識寄りの生活を送ることに専念できていたのです。
その状態で再び社会に出て集団生活を送った時に「ああ、人との一体感って、良いな」と初めて思えたのです。
そう、人から愛されて、人の好意を受け取ることが、こんなにも心地よく自然体になれることなんだって。
そんな時、私は自分が「子供を産みたくない」と思っていたことを思い出したのです。
それは、たとえば元カレがバツイチ子持ちだった時に相当ひどい目に合って(浮気されたり無視されたりして)それで私は子供嫌いになったと思っているところもありました。
だけど突き詰めていくと色々あって、自分の子供を産むことで、自分の過去や自分の恥ずかしいトラウマ体験を想起してしまうのが何よりも恐ろしかったのです。
自分の子供の成長とともに、特に性的トラウマを想起するような出来事に直面したくなさすぎて「子供なんて一生産めない!」となっていました。
他にも、人工中絶した過去や(批判を受ける覚悟で書くと)幼い頃に近所の小さい子にいじめられていたような記憶なんかもよみがえってきますが、総じて「自分の子供は自分のトラウマを背負って生まれてくる」という感覚が強かったのです。
それと、「死の恐怖」ですね。
だけど、「死の恐怖」はもしかしたら「自分の子供が生まれたらなくなるのではないのか?」と考えたのです。
「死の恐怖」で感じるものは、「孤独感」だと思います。
孤独感を感じたくなくて、死にたくない。
死ぬ時は、誰にも私の痛みを分かってもらえなくて一人で死んでいく。
でも、生まれる時も一人だったじゃない?と思うのです。
だけど生まれた時は、人はたくさんの人に祝福されて(そうではない方もいるかもしれませんが)迎え入れられるのです。
じゃあ何が違うの?と考えた時に、心は「ひとりぼっち」と言ってくるのです。
ひとりぼっちだから死にたくない。誰かのそばにいたい。
そんな感情なのかもしれません。
ある方が、虚無は「人との一体感を求める」と仰っていたことが、ここ最近の私のテーマです。
だから人との一体感をちゃんと持って凪を感じる人生であり、葦の群生のひとつになれたのなら、もしかしたら死ぬのが怖くなくなるのかもしれない。
それの第一歩が、もしかしたら「自分の子供を産むこと」で、私は今までの人生、自分のために仕事をしていて子供を育てる余裕なんてないと思っていたのです。
お金だって時間だって、ある分だけ自分のために使いたい。
だけど、「自分の老いを認める」と思った時に、「ああ、子供にたくさん私自身の教えを教えて“受け継いでもらえた”と思えたら、安心して死ねるのではないか…」とそんなことを考えたのです。