無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

天高く肥ゆる馬

天高く広がる青空と雲を見上げた時、私は「この世でひとりぼっち」を体感していることに気づきます。

 

その「ひとりぼっち」とはとても心地良くて、だからずっと一人で秋の風を受けたい気持ちになっています。

 

今、私にはお金の不安があったり、対人関係の不安や悩みがあったり、将来を心配する思いがあったりと、凪からは少し遠いようなところにいたりもします。

 

だけど「凪」を思い出した時に感じる秋の風のように、私の心の中にはいつでもおだやかな風を吹かすことができます。

 

その方法はただ『凪』と思うだけで良いということなのです。

 

ただ『凪』と思うだけで、あらゆる不安が沈殿していって、心の奥底の方へと広がって沈みます。

 

すると、ちょっとした刺激で「不安」が舞わなくなるから、心の中に沈殿した「不安」は静かに静かに底へ溶けだしてやがて消えていきます。

 

その「不安」は、きっといじらないことで心の奥底で沈んだまま、忘れ去られていくのでしょう。

 

そうして忘れた「不安」は私の中で糧になり、明日の生きるエネルギーになります。

 

どうやってエネルギーになっていくのかというと、怒りと同じで「不安を原動力にして動くこと」なのかもしれません。

 

ただ「不安」を原動力にして動くと、それこそ焦燥感から焦って失敗したり、取り繕って墓穴を掘ったりするのかもしれません。

 

だけど「凪」の底に沈んだ「不安」なら、慌てず急かさず冷静に物事を見極めて不安に対処できるのかもしれません。

 

これがどのように違うのかというと、単なる「不安」だと脳内が発作を起こした状態になります。

だけど「不安」があってもトラウマ的な気持ちが落ち着いた状態であるのなら、「不安」があっても「不安」に囚われ過ぎて焦って「あれもこれも!」とやっちゃわないことなのです。

 

一個一個淡々と取り組むことができると「ああ、脳の発作が収まって凪の状態だから、一つひとつ冷静に取り組めるのか~」ということが分かってきます。

 

発作状態だとどうしても「今すぐなんとかせねば!」と先のことはどうでも良くて、「今の不安を今すぐ消さないと!」とそんな方向に行きがちなのではないでしょうか。

 

発作状態が何も悪いわけではありません。

じゃあ、何が問題なのかというと、その発作状態で我を見失って自分を制御(コントロール)できなくなってしまうことです。

 

じゃあ、なぜ自分をコントロールできなくなってしまうのが良くないことなのかというと、そこには「偽りの快感」が存在しているのでしょう。

 

「偽りの快感」というのはその名の通り「偽の快感」で、本当は居心地が悪いのにそこを「居心地が良い~!」と思い込んでいるような状態です。

 

つまり「偽りの快感」があることで「本来の自分が感じている快の感情」というのが歪められてしまいます。

歪められてしまうと何が起こるかというと、「本当の快とは違うことを求めてしまう」ようになってしまうのです。

 

「本当の快とは違うことを求めている状態」では、脳内の凪を感じられません。

だからずっと発作状態の脳内で「うわ~!」とジェットコースターに乗っているような気分になって、そこから降りれなくなってしまうのです。

 

そんなことを経験しながら、人は「ここが居心地が良い」という場所を求めて生きていきます。

 

「私の本当の居場所は?」ともし疑問に思っていらっしゃる方がいるのなら、心に聞いてみても良いかもしれませんね。

「心よ、私の本当の居場所はどこ?」と尋ねてみると、心の返答は「どこでもない。あなたが“心地良い”と思うところなら、ここでも良いしどこでも良い」という適当な返事が返ってきます。

 

「心よ、あなたが思う“心地良い場所”ってどんなところ?」と聞いてみると、心は「そうですね、私にとって“心地良い場所”というのは、あなたが何も考えずにぼー…っとしている時のように、おだやかな風が頬に当たって、明日のことも夕飯のことも何も考えずに、ただただ河川敷の風を頬や体や服がなびく感覚を感じることなのかもしれません」と教えてくれます。

 

私にとって、河川敷の風というものはどこか懐かしく、そして自分の居場所を確立するような場所であると思っています。

なぜならそこには障害物がなく、ただ夕陽が落ちる光景とおだやかな流れの川とそこに映る光の反射を感じながら、私は髪が風になびくにまかせて、ぼー…っと思考を置き去りにしていくのです。

 

そうすることによって、大地と一体になった感覚を得て、焦燥感や未来への不安を手放し、ただただ風に身を任せていると、やがて夕暮れの陽が落ちてあたりが真っ暗になっていきます。

 

すると私は自然と「帰らなきゃ」と自転車にまたがって、家へと歩みを進めるのです。