夢見る小鹿
人は「夢」を見ます。
それは夜に見る夢かもしれないし、あなたが思い描く「理想の未来」の夢かもしれない。
私が今日ここで語る「夢」はどちらかというと後者の「理想の未来」の話ではなく、「夜に見る夢」の話をお送りします。
夜に見る夢というのは、記憶の整理かもしれないし、もしかしたら予知夢を見ることもあるかもしれない。
だけど、多くの人は「夢」と聞くとどんなことを思い出すでしょうか。
「悪夢」を思い出す人もいれば、「予知夢」を思い出す人もいるでしょう。
そうして一つ一つの夢には、意味があるようでないのかもしれない。
たとえば風船が空に浮かんでいて、それを掴もうとする夢を見たとする。
だけど夢の中の私はジャンプしてその風船に手が届かず、だけど風船は空高く飛んでいくこともなく、私の手が届くか届かないかのところでずっとふよふよと浮いているのです。
私はなぜか、その風船を「手に掴みたい!」と思って必死にジャンプするのだけれど、全く掴めずに何度も空を切るのです。
もし、その風船を掴んだら何かやりたいことがあるのかと言えば特段そんなこともなく、ただ何となく「その風船をこの手に掴んでみたい!」だけど掴めないから「意地でもそれが欲しい!」と欲張りになっているのです。
そんな時に夢から覚めると、私はきっと「悪夢を見たー!」と思ってしまうのでしょう。
なぜなら「掴みたくても掴めなかったもの」がそのまま夢の中に残ってしまって、現実には落胆した気持ちだけが続いてしまうから。
だから私は「昨日の夢の続きが見たい!」と思って、もう一度あの「風船の夢」を思い出すのです。
だけど何度願ったとしても、あの日のあの時間に見た「風船」は、私には手に入れることが出来ないのです。
なぜなら、二度同じ夢を見ることは「できない」と思っているから。
だから私は何度でもあの風船の夢を思い出し、そして「この手に掴み取れなかった」感覚を思い出し、そうして「どうしても掴み取りたい」という執念に駆られるのです。
そうして私は「昨日見た夢の続き」を望むこともありますし、「もう二度と見たくない!」と思う夢も当然あります。
だけどもし「夢」が記憶の整理のために見ているものであるとするならば、「夢」が果たす役割は「何度も同じ夢を見ること」ではなく「私が脳内で処理できない記憶と感情をバラバラになったままにしておかず統合すること」なのです。
そうやって「バラバラになってしまった記憶と感情」が夢に出てくるから、私が夜に見る夢はバラバラな感情のまま散らばって、そして私が納得できない終わり方をしたとしても、それはそれで記憶が整理されているのだと思うのです。
そうです、トラウマというのは、心の傷を受けた時と同じ状態を何度も再現しようとしてしまいます。
そうして「夜に見る夢」で何度も整理されるよう見ることで、私の中の何かが確実に変わっていっているのかもしれない。
だけど「本当の夢」というのは多分覚えていなくて、起きる直前にだけ見た夢が「夢」だけであるというわけではないのです。
トラウマを受けおうと、私の心の中で「記憶」と「感情」がバラバラになります。
なぜなら「記憶」の引き出しに「感情」が整理されないから。
「こんな感情、経験したことねーよ!」と心が悲鳴を上げて、記憶の引き出しに整理することを拒絶します。
そうするといつまでも脳裏にフラッシュバックする記憶ができてしまい、いつ何時も「突然思い出す!」記憶というのが新鮮なままそこに保存されています。
私はこのフラッシュバックがとてもひどくて、「今を生きていない!」という状態に長年ありました。
だけどフラッシュバックがおさまってくると、新鮮なトラウマがなくなって、ちゃんと「古い傷」として私の中で処理されていきます。
そうすると私は「今を生きて」、ちゃんと楽しいことを「楽しい!」と感じられて、大好きな人と一緒にいる時間も記憶が飛ばずに済みます。
そして、その大好きな人とちゃんと時間を積み重ねることができて、過去をもう生きることなく、未来へ向かってどんどん積み重ねていくことができるのです。
そうすることで、トラウマの古い傷跡がカサブタになり剥がれ落ちて、私はやがて大人になって歳を取るのです。
トラウマによって止まっていた時が動き出し、今目の前にいる人と共に、人生を生きることができるのです。