水風船/ヨーヨー
よくお祭りに行った際に金魚すくいのように「ヨーヨーすくい」というのがあります。
そのすくい方というと、水風船の先についた細い糸にワイヤーを通してすくい上げるといった方法だったと思います。
このヨーヨーすくいという遊びは主に夏祭りの出店で見られますが、私はやったことがありません。
それよりも、綿菓子を食べたりりんご飴を食べたり、焼きそばの美味しいにおいに惹かれたり、何かお腹を満たすようなそんな物の方が私の心の中を占領するのです。
いつも「損か得か」を考えて生きているから、知らぬ間にがんじがらめになって人間関係を楽しめない。
「私が損をしないか、相手が損をするか」そのどっちかしかないと思っていたから、人付き合いがしんどかった。
どこかでお金の計算や時間の計算をして「どっちがより多く相手に代償を払うか」ゲームのように、「私か相手どちらかが損をする」構図というのが私の頭の中に出来上がっていたのです。
このように常に頭の中はフル回転していて、だから「今、何円多かった」とか「この借りは次に返すとか」常に平等であろうとしている割には、お互い平等ではないバランスが出来上がっていたのです。
それは大抵、私の自己犠牲から始まります。
私が自己犠牲をして「相手に余分に与えている」という状況を作っていると、ちょっと安心します。
なぜなら、それで相手から糾弾されることはないと思っているから。
別に私の方が少々得していようと、そんなことを気にしている友達はいなかったと思います。
だけど心が狭い私は「私が損をしないように、私が先に恩を売っておく!」という謎の駆け引きを先に繰り広げるのです。
私は、もうそんな生活に疲れていました。
正直、誰から何をどれだけもらったかは覚えていないのです。
ただ、自分が損をして後で後悔をしないために、「債権を回収しないと!」状態がずっと続いていたのがしんどかったのです。
だから私は「自己犠牲をやめよう!」と思った時に、まず人のことを考えるのをやめました。
常に私の頭の中には人が占領していて、ぎっしりと脳内に詰まっていたのでした。
だから読書をする時も、電車に乗っている時も、道を歩いている時も、仕事をしている時ですら私の脳内で誰かが常に喋っているのです。
これは統合失調的な幻聴ではなく、この場合の喋っているというのは「過去の場面」です。
昨日あの人に言われたことや数か月前に浴びせられた罵声や、そんなさまざまなことがフラッシュバックのように脳内によみがえっては、さまざまなことを私に再度投げかけてきます。
だから私は常に誰かと喋りながら誰かのことを考えていて、片時も忘れないのです。
そう、そして常に誰かのことを思い出しているもんだから、自分の感覚というのがないのです。
「自分の感覚」と聞くと思い出すのは、「私が痛いとか辛いとか悲しいと感じた時、誰が共感してくれるんだろう」ということです。
別に誰かに共感してほしいと強く望んでいるわけではないけれど、何となくいつも「私は人にばっかり共感していて、共感してもらったことがない」と思っていたのです。
なので私はずっと寂しく、自分の「憎しみや悲しみ」を手放せずにいました。
「誰にも共感されないのであれば、話す必要がない」と思って、後生大事に持っていたのです。
カウンセリングの醍醐味は「人に言えない恥ずかしい過去を人にさらけ出して、認め合うこと」だと思います。
自分が後生大事に持っていた憎しみ悲しみ辛さといのは、誰かに話すことで手放せます。
そうすると受け取った側の相手にも内省が起こり、そしてお互い癒され合う。
だけど、もし内省をしてくれない相手だとしたら、互いに発作を起こして炎上してしまうわけなんです。
「苦しさ辛さ」を認め合えず、不幸の自慢話になってしまうので。
なので、大事なことは「あなたが後生大事に手放さずに持っている罪悪感や恨みつらみは、きっと分かってくれる人がいる」と思わずに、ただそこにある苦しみや辛さを認めて、そして「誰かに話すことで“手放す”」と、ただそれだけを思えば良いのではないだろうか。
そう、誰かに同じような回答を求めるのではなく、あなたが心から相手を信頼して無意識に委ねた時に、お互いの無意識が起動して「ああ、この人は本当に辛い道のりを乗り越えてきたんだなあ」とリスペクトが生まれるのでしょう。
だから、手放すことを諦めないで。
夏祭りのヨーヨーのように、そこにはカラフルな思い出がたくさんプカプカ浮いていて、まだ誰も手を付けたことがないそのヨーヨーを手にするのはきっとあなたで、そうしたらその夏祭りの楽しい思い出の一部として「ヨーヨーすくい」というものがあなたの記憶の中に留められるのでしょう。