無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

あなたの人生の行方

「あなたの人生はどこに行ってどこで眠るの?」ともし問いかけられたら、私はちゃんと答えられるのか不安です。

 

なぜなら、日頃そんなことを思ってダラダラ過ごしている訳ではないから。

 

私は一体「誰」で「どこに向かって」「何をしたいのか」そんなことを簡単に明確に答えられたら、私は人生でこんなにも悩まなかったのかもしれない。

 

私は、未だに自分が「誰なのか」分かっていないし、何を目的に生きているのかも分かっていない。

 

ただ、誰かに求められたら答えて、苦しくなったら何かに救いを求め、そうして日々のんべんだらりと自由に生きているつもりなのです。

 

そうやってムダに時間を過ごしている時間もあれば、「何かやらねば!」と急に焦った感情になる時もあります。

 

残りの人生の年数を数えてみても「到底足りない!」と私の意識は悲鳴を上げて、そうして「今できること」もついにはほっぽり出してしまうのです。

 

私は大嶋先生の言うところの「何も出来ない完璧主義者」で、何かしようと思っても些細な物事が気になって手をつけられなかったり、確実に成功が約束されていないと取り組む意欲もなくなってしまうような、「いつから私はこんなにヘタレになってしまったんだろう」と思うこともしばしばあります。

 

そうやって人生に意味を求めては、挫折して、自分の「生きる意味」というのを見つけられないまま今日まで来た訳です。

 

そうなると私は、「名前を残すことが有益」と思っているのか、なんとか有名になろうとする方向を模索してしまうのです。

 

「名前を残すこと」にどれぐらいの価値があるのかは、分かりません。

だけど、自分の自尊心を満たすことが出来るのはよく分かります。

 

自分の自尊心を満たしたところで何かが変わる訳ではないし、生活が楽になる訳でもない。

私が今すぐ解決すべきことは、この問題の中には隠れていないのです。

 

だから私は毎日を必死に「明日の生活費」のことを考えたり、「あの人が私のことをどう思っているのか」を考えたり、そんなことをしながら日々潰していると、私はある思考にたどり着くのです。

 

それは「私が何も成し遂げなくても誰も困らない」。

そう、自分さえも困らないのです。

 

何かを成し遂げることに関して異常なまでの執着心を持っていて、私は事あるごとに日記を書いては「自分の存在意義」を誰かの中に見出そうとしていました。

 

だけど、私が求めていた「自分の存在意義」というのは、誰かの中にあるものよりも「自分の中にある輝くもの」を手にした時に存分に発揮されることを、私は最近知ったのです。

 

それを具体的に言うと「自己肯定感」になるんだろうけれど、私はそれ以外の言葉で表現すると「ありのままの自分を認めること」となるんだと思っています。

 

「ありのままの自分でいられない!」と思った時に、人は他人の評価に頼ったり、自分以外の何かの存在にしがみついて「あなたは素敵よ」と肯定されたくなる感情が出てくるのかもしれません。

 

そうすると自分はおろか、他人までも巻き込んで「私ってきれいでしょ?」と押し付けてくるような口裂け女のような存在になってしまって、「誰もキレイって言ってくれない!!!!!」と言って怒るのかもしれません。

 

そうすると「他人の人生を生きる」ということになってしまって、自分の感覚が薄れていく。

自分の感覚が薄れていくと、自分の「快・不快」が分からない。

 

そうなると他人と近すぎたり遠すぎたり、適切な距離感で人と関わるのが難しくなって、自滅してしまう。

 

私はいつもこれの繰り返しで、「どうして他人が自分を評価してくれると思ってたんだろう」とそんな自分を恥じます。

 

自分は何者でもない。

お釈迦様でもないし、イエス・キリストでもない。

ただ一人の人として生きるのに、何かの称号が必要なわけではない。

 

ただそこに広がっている凪のように、何かを見つめながら、何かに揺られながら生きる葦のような人生も、また一興なのかもしれません。