無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

打ち上げ花火は夏の夜の終わりに

夏の夜の終わりに見た打ち上げ花火を、あなたは覚えているでしょうか?

 

その花火の最後は、ゆっくりと火花が散って落ちる枝垂れ桜のような花火だったかもしれないし、パチパチと弾けて夜空に消えていく線香花火のようだったかもしれない。

 

あなたが見た花火の種類で、あなたは今この瞬間、何を考え思い馳せているのかを当てることが出来るなら、私はぜひ「枝垂れ桜を眺めていた」と答えたい。

 

なぜなら、それは私の夏の夜の思い出であり、そこから連想される景色や風景は必ず「誰か」と一緒だったものであり、私は多くの人とともに多くの時間を費やしてきた思い出がある。

 

そうなると、今の自分は今の今まで関わってきた全ての人と繋がって私自身が作られており、それが故に「自分を見つける」ということが大変骨が折れることだったのかもしれない。

 

この「自分を見つける」作業を行っている時、私は多くの人を見て「あれが私だ」「これが私だ」とその多くの人の中に私自身を見つけようとする。

 

そうすることで一体感を得て、安心した気になっているのかもしれない。

 

「本当の私」を探しに行く時に、私は少からずとも「誰かに呼吸を合わせた時に感じる不快感」のように、もっと奥深く入って自分を知ることは、何かのぞいてはいけないものを覗き見しているような、そんな感覚に私をさせるのです。

 

すると私は「自分の感覚」を見つけるために深淵を探らないといけないから、その深淵を見ようとして「誰かの穴」に落っこちてしまったりする。

 

それは大抵「母親の穴」なんだけど、私はその穴に落ちた時に必ず「この世が大嫌い」になるのです。

 

昔、「砂の女」という小説を読みました。

安部公房の小説です。

 

私は本当のことを言うと「砂の女」よりも「とらぬ狸」の話の方が好きなんだけど、この「砂の女」は衝撃的だった。

 

もし私があの世界に迷い込んだとしたら、それこそ順応できるか分からない恐怖はあるけれど、私は自分を保っていられることが出来るのか。

 

私は、未知の世界に迷い込んだ自分を想像した時に、私より遥かに彼氏の方が順応性が高いことに気づくのです。

 

もし、あの世界に取り残された時、真っ先に自分の生きる道を模索するのは彼の方だろう。

私はというと、恐らくその世界を堪能することなく、悲劇的な自分を嘆くのかもしれない。

 

私は何よりも変化が苦手です。

変化するぐらいなら、私は誰かに変化して欲しいと望むのです。

 

そうすることで「母親の穴」から抜け出せない理由を作り、いつまでも守られた市松人形のように、私はそこに佇んだまま誰かの帰りを待つのです。

 

私は、自分に構ってくれる人が好きで、自分に興味を持ってくれないと「私のことを好きじゃない」と思ってしまう病のようなものです。

 

その病に蝕まれた時、私は自我の崩壊を経験し、「私が私でなくなるその瞬間」まで、私は自分が生きてきたこの宇宙について考えるほどの余地は残されていないのでしょう。

 

私は「自分が自分でなくなるその瞬間」を打ち上げ花火のように「華々しいもの」と思っていたけれど、多分それはただの発作で、本当は「自分が望む自分」になれた時に起こる凪の世界を経験することで、「私自身の知らない世界」を受け入れられるのかもしれない。

 

そんなことを思いながら、私は「今日のこのブログもさっぱり意味が分からないなあ」と思うので、最後に心に聞いてみたいと思います。

 

「心よ、あなたは結局何が言いたいの?」

心は「そうですね、私はあなたが〝自分の意識の世界〟から出るその瞬間に見る光景が、たとえば何億何千の人と繋がっていたとして、最もそれを体感するのに近いのは〝無意識の世界〟に触れた時に起こる〝イメージの世界〟なのです。」

「そのイメージの世界は打ち上げ花火のように、あなたの記憶にあるかもしれないし、ないかもしれない。もし、あるとしたら、もう少しそのイメージに手を伸ばした時に感じる感触や視覚や聴覚を頼りに私に委ねなさい」

「そうすることで、今まで見えなかった世界が見えてきて、そうして私に委ねる心地良さを知ることになるでしょう」

 

打ち上げ花火は今日も私の心の中で上がります。

それは誰かと見た夏の記憶かもしれないし、これから別の誰かと見る新たな夏の思い出かもしれない。

 

それはきっとかけがえのない一瞬であり、無意識が教えてくれた最高の瞬間なのかもしれない。