つぎはぎだらけのラプソディー
ラプソディーインブルーが、バイト先のBGMとしてずっと流れていて、それを聴いているから「ラプソディー」なんて言葉が出てきたのかな?と意識の上では考えます。
でも、無意識は「ドット以外」が無意識だから、私の意識では到底理解できない範囲で何かが起こって「ラプソディー」なんて単語を出してきたのかもしれない。
私は昔、ピアニストになりたかったんです。
だけど、まず手が1オクターブも届かないほど小さい。
そして、練習がなぜだかどんどん億劫になっていって、最初は「天才児」だなんて言われていたけれど、いつしか怠惰になってしまって、それこそ「後の者に先を越される」なんてゆう状態になっていたのです。
だから、私はピアノが好きだけど、ピアノが嫌いでした。
私は、母親を喜ばせるためにピアノを上達したかったのか、それとも私自身が本当にピアノが好きだったのか、今になると分からないけれど、私は誰かが喜ぶ顔を見れるのがうれしいし好きだと思っていました。
そんな私は「誰かのために生きる」ということを美徳としていたのかもしれませんね。
「誰かのために生きる」ということをするために、自己犠牲をして自分の時間や自分のお金を相手のためにつかいます。
そうすると感謝をされるかもしれないけれど、私が望んでいるのは感謝ではなくて「対等な人間関係」だったんだと、今になって気づくのです。
私は「対等な人間関係」を築くのが、ものすごく苦手でした。
自分がへりくだることで相手を立てて安心する。
相手が安心したのを見て安心しているだけだから、それはただ単に「恐怖を回避した」だけに過ぎないのでしょう。
だから、ずっと若干居心地が悪くて、私は「いつか誰かに批判されるのではないか?」とそんな気持ちで過ごしていたのです。
なぜ、「へりくだること」で相手を安心させて自分も安心しようとするのかというと、「相手の感覚に依存している」からだと、大嶋信頼先生の『空気読みすぎさん』の本に書いてありました。
「相手の感覚を頼りに生きる」ことで「自分の心地良いが分からない!」となってしまう。
そうすると、私たちはみんながみんな「相手は自分のことをどう思って生きてるんだろう?」と考えているわけではないから、相手の感覚を感じない!という人にぶち当たった時に「空気読みすぎさん」の私は「あ!相手から好かれてない…」と思ってしまうのです。
どうして相手の感覚を中心に考えると「自己効力感が下がる!」となるのかというと、「人は優越の錯覚を持っているから」と大嶋先生は仰っていたと思います。
自己効力感とは「自分を認める!」ということで、自分を認めることで誰かが上とか下とかではなく「自分って素敵!」とそう褒めてあげることができます。
自分を褒めてあげることができると、誰かと比べることなく純粋に自分を応援できるのだと思います。
努力をしている自分が素敵だったり、オシャレを楽しんでいる自分が好きという感覚であったり。
「誰か」の存在を排除した時に、私は自分を信じれることができる。
(これを大嶋先生は「他者目線」と仰っていました。心の言う「邪魔」もそうなのでしょう)
私は「誰かの目」を意識した時に、途端に喋れなくなってしまいます。
そうすることで、私は誰かから守られているような感覚になります。
そう、これはきっと赤ちゃんに退行しているということで、「バブー!」と喋れないことで「お母さんが守ってくれる安心感」=胎内に戻る、ということなのかもしれません。
じゃあ、何で「喋れなくなる」というサインで表れるのかというと、それは一種の催眠状態と一緒で(暗示を掛けられているんですね。この場合は悪い暗示ですね)「あなたが喋れないことで、母親がいなくなると困るでしょ?」感を出しているようです。
(恐ろしい!私は喋りが大事な仕事をしているので、頭が真っ白になって喋れなくなるのは自分の分給を逃すことと同義です)
そう、私が喋れなくなる=社会に出て働けなくなる=収入源を失くす、という見事な相関関係が成り立つのです。
だから私は母親に足を引っ張られてるし、何度も「母親の影響でお金が稼げない」と心は言ってきます。
たとえば、お客様に対して怒ってしまったりする時に特にそれを感じますね。
(私はお客様の話を聞いてアドバイスをする仕事をしています)
今、唐突に思い出したのですが、インサイト・カウンセリングの最初の一年ぐらいは「仕事中にお客様にイライラしてしまう!」というのを題材として扱っていました。
そして、心に聞いていつも返ってくる答は「それは母親の怒り」です。
私は、母親と怒りポイントが全く同じというか、母親のために怒っているというか、「そのキレポイントは私の母親のもの!」と何度も認識することになるのです。
だけど、発作だからトラウマだから分からないけれど、認識していても怒りが止まらなかったりするのです。
「あれ?おかしいな。“母親の怒り”とちゃんと認識しているのに、相手への攻撃が止まらない!」となっている時に、私は「目の前の相手の怒りが伝わってきて私が怒る」という構図を思い出します。
そうするときれいに怒りが止まったりします。
あまりオススメをしてはいけないかもしれませんが、目の前の相手に対してイライラと爆発的な怒りを感じている時、目の前の相手に「あなた、今ものすごく怒っていますよね?」と問いかけると、だいたい相手の方は「そうなんです!なんで分かったんですか!」と仰って、相手の態度が軟化します。
そう、相手も「自分が相手がイラつく態度を取っている」ということに関して無自覚なのです。
その無自覚のイライラを受けて、私がイライラしてしまうのです。
それは、意識的な解釈での相手の態度を列挙すると
・無視をする
・語尾が強くなる
・パーソナルスペースに侵入してくる体の距離感
・なんでも「そうじゃない」と否定的
その他には、相手が笑顔なのにイライラする時もあります。
その場合は
・笑顔で「分かりました!」と言ってくるけど、納得するのが早く話が広がらない
・張り付いた笑顔なので気味悪く見えてしまう
・笑顔なのに口調が強い
とこんなふうに表れたりもします。
だから、私たちはもしかしたら脳のミラーニューロンでも受け取ってるけれど、私たちの脳に蓄積された膨大なデータから相手の些細な変化を読み取って、「あ、これは相手が怒っている証拠!」と集めて分析しているのかもしれない。
だけど意識レベルで「相手が怒っている!」と認識できないと帰属先がないから、「私が怒っている」ことにしてしまうのかもしれない。
何が言いたいかというと「まずは本当に自分が怒っているのかどうか」を疑うことから始めてみるのが一番ベストなのかもしれない、ということです。
だいたい相手の怒りを受け取っています。
それが遠く離れている母親かもしれないし、目の前にいる相手のものかもしれない。
だから「心よ!」とタグ付けをして心に問いかけることで、私たちはその思い込みの世界から外れて自由に羽ばたいていける。
何も怒ってはいけないとか自由であらなければいけないとか、そういう訳ではなく、もしあなたが今、理由の分からない「過去の怒り」に苦しめられているのであれば、「本当の怒りの持ち主」を探し当ててみても良いのかもしれない。
つぎはぎだらけのラプソディーとは、誰かの邪魔を排除して聞いた時に、自分が今まで旅してきた道のりを表すメロディーが聞こえてくるのかもしれない。
そうすることで、「怒り」も自分の一部だったけれど、その「怒り」さえも自分のエネルギーに変えることで、「私の怒りは悪いもの」から「私の怒りは誰のものでもなく自家発電の装置である」と私の心に浮かんできます。
ここまで書いて、ようやく猛烈に襲ってきていた眠気が吹っ飛んで、頭がシャキッと起きました。
「心よ、あの眠気は誰かの怒りを自分のものにしていたから?」
「そうではありません。あの怒りを手放した時に、あなたは片方の足を失ったような感覚になります。それが眠気であり、あなたが新たに生きる道を探した時に舞い戻ってくるのは、いつもそばで見守っている母を捨てて」
そこで思い出したのは、昨日のブログの「眠気と母親」です。
どうも私の睡眠時間や睡眠と母親が深く関わっているのかもしれませんね。