無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

天の川を渡ると見えてくるのは彦星じゃなくて私自身

天の川というと、一年に一回しか会えない織姫と彦星がその川を渡って出会うとか出会わないとか。

 

雨が降っていたり曇っていると天の川を渡れないので、また次の一年まで織姫と彦星はデートすることができない。

 

もし、一年に一回しか会えない恋人がいたら、私は寂しいのだろうか?と考えてみた。

じゃあ、私は何のために彼氏に会いたいと思うのだろうか?

 

織姫と彦星じゃなくても、一年に一回しか会えない友人がいたとしたら、私は寂しいと思うのだろうか?

私はなぜ「友人に会いたい」と思うのだろうか?

 

もし、人が人に「会いたい」という感情をなくしてしまったとしたら、私はそれはそれで良いのではないかと思うけれど、「感動」をどこで感じるのかというと、やはり「人とシェアした時」ではないのだろうか。

 

誰かと今の自分の気持ちをシェアした時に、「ああ、私はこの世の中でひとりぼっちじゃないんだ」とそんな感覚が自分の中に広がります。

 

そうやって、誰かと繋がっていることを確認すると、自分の孤独が薄らいでいく感じがして、発作が凪になっていきます。

 

「誰とも分かり合えない」というのは、心のどこかで人との交流を求めているから出てくる言葉なのかもしれません。

本当にマジで「どうでもいい!」と思っているのなら、そんなことすら思わない気がします。

 

だから、寂しがり屋の人は、誰かを求めては裏切られ、そして自分もてのひらを返したようになってしまうから、だからどこかで人を信用できなくなってしまう。

 

私は、ものすごく人を信頼し過ぎてしまう人でした。

 

ホルモンの乱高下で言うと「オキシトシンバソプレシンの乱高下」で、人を信頼しては「裏切られた!」という快感を感じたいのか、心のどこかで粗を探している自分もいました。

 

もし、人が本当に信頼できる人なのであれば、私はこんなにも苦労していない!と心のどこかで求めていて、「私が人を信頼できないのは、あなたの悪い行いのせいだ!」と罰しては相手に好かれようと努力する矛盾した自分がいました。

 

そうなることで、ますます人を信用できなくなって、そうしていつの間にか私のまわりから人がキレイにいなくなってしまうのです。

 

私が破壊しているのか、人を破壊するように仕向けているのか。

そもそも自分の人選が悪いのか…。

 

そんなことを考え出すとキリがないのですが、だからか私の人間関係は見事なまでに「過去がない」です。

 

私は、ただ今にだけここに存在していて、今までに関わってきた人というのは、いつの間にか縁が切れて消えていきます。

それが憎しみ合ってという時もあれば、自然と連絡を取り合わなくなる時もあるし、互いに何か思って拒絶し合う時もあります。

 

人間関係というのは本当に難しいなあと思うのは、人のことを考えて発言すればするほど「違う!」と怒られてしまうこと(笑)

いやあ、本当に的外れになってしまうのですよ、相手のことを考えた発言って。

 

なんで的外れになっちゃうのかというと、多分、誰かを想像して答えているつもりが「自分基準」にして考えてしまっているからかもしれません。

 

その「自分基準」を排除するのにはなかなか苦労がいって、「関係性を無にする」とか「呼吸を合わせる」とか、大嶋信頼先生のブログの中ではたくさんその手法が出てきます。

 

だけど私が一番なるほど!と思ったのは、「〇〇の背後に無意識が働いている」ですね。

これ、本当に効きました。良くも悪くも(笑)

 

これを目の前で唱えて、相手が突然キレて席を立つこともあれば、その後仲良くなることもある。

本当に何が起こるか分からないけれど、相手の無意識を信頼して無意識が起動した瞬間に立ち会えるということは、とても感動を覚えることです。

 

「ああ、なんて美しいんだろう」と相手の無意識をリスペクトすることで、こちらの無意識も起動することができるのでしょう。

 

人と人がミラーニューロンで繋がっているのだとすると、私が今感じている感情は「目の前の人のもの」となります。

(もし今、目の前に人がいないのであれば、脳内で注目を向けた相手の脳を真似します)

 

ミラーニューロンで繋がった時に相手の不快感を受け取り、私は怒ります。

怒っても怒っても怒りが晴れない時に、私はもっともっと相手に対して抑えられない怒りを感じて怒りまくります。

それが相手のものだと知らずに。

 

私が抑えられない怒りを感じて相手を脳内で罵倒してしまっている時なんかは、よりそうなのかもしれませんね。

相手に罵倒されているから自分も相手を罵倒してしまうのか、脳内で相手が自分の奴隷化となっているから自分は相手に対して罵倒するのがやめられないのか。

(快感となっている)

 

もし、そうだとして、怒りは何のためにあるのかというと、大嶋先生曰く「しがらみカッター」なので、怒りを感じた時点で距離を開ける必要があるのかもしれない。

 

怒りを感じてまで我慢して一緒にいるメリットといえば、「相手に怒る快感を感じる」と偽りの快感のメリットでしょう。

 

だから、相手に怒りを感じた時は、まず「あ、距離が近すぎるんだな」と思って適切な距離感に戻します。

適切な距離感とは、大嶋先生曰く「リスペクトできる距離感」ですね。

 

で、じゃあ「天の川を渡ると見えてくるのはどうして自分自身なのか?」ということですが、心は「それはあなたが怒りを感じた時に相手に投影する怒りや憎しみや悲しみは、天の川ぐらいの距離を開けてちょうど十分良い距離感」と言ってくるのです。

 

なんのこっちゃと思って、心に「じゃあ、天の川ぐらいの距離感ってどれぐらい?」と尋ねてみると(心に聞く時は必ず「心よ」と頭につけてください)、心は「それはこの部屋の端から端まで」と言うから、「なんだ、そんなに遠くないじゃない」と思いました。

 

だけど、織姫と彦星からしたらハグできない距離感なので、「そりゃあ遠いか…」となります。

声は届くけど、相手の肌のぬくもりに触れることができない。

それって、孤独を感じるのかもしれないと思うのです。

(お、この記事の最初の話題と繋がってきたかも?)

 

「心よ、じゃあどうして“天の川”のイメージが必要だったの?普通に“怒り”でいいやん」と問いかけると、心は「それじゃあロマンティックじゃない。」と答えてきます。

 

「怒りにロマンティックも何もないやろ」と思って、心に「心よ、どうして怒りがロマンティックでないとダメなの?」と聞くと、「怒りがロマンティックであればあるほど、生きるエネルギーが湧いてくる」と言ってきます。

 

「心よ、じゃあロマンティックでない生きるエネルギーとは何なの?」と聞いてみると、心は「それは、嘘や欺瞞に満ちた醜い世界の投影」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ醜いの?」と聞いてみると、心は「人がキレイに生きようとした時に排除しがちなのが、怒りと憎しみと悲しみなんだろうけれど、私はそれらがあるから成り立つ感情があると思っている」と言ってきます。

 

「心よ、たとえばどんな感情が成り立つの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが感じる喜びや愛しさというものは、誰かに分け与えた時に怒りに変わることはないでしょう。なぜなら、そこにあるのは怒りではなく喜びだから」と言ってきます。

 

「心よ、怒りや憎しみや悲しみを人と分け与えるとどうなるの?」と聞いてみると、心は「それはあなたが今まで押し潰されてきたように、嫉妬をエネルギーに変えると良い影響が生まれるかもしれません。だけど、ただの怒りや憎しみや悲しみは伝染していくと、あなたの中で不幸や不満に形を変える」と言ってきます。

 

「心よ、私が私のために幸せに過ごす方法は何?」と聞いてみると、心は「そうですね、誰かのことを気にせずに楽しく過ごすのにはコツがいります。たとえば、あなたが大切にしていた思い出を壊さないとか、誰かと共に過ごした時間を何度も反芻してそこから出れなくなった時、あなたは他の誰かより“自分の感覚”に注目してみると良いかもしれません」

 

心はそう言って、私にゆっくりとほほ笑みかけているような気がするのです。