無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

カフェオレを零して落ち込むのは母親のため。

さっき「よっしゃブログ書こ!」と思った瞬間、飲んでいたカフェオレをこぼしました。

「あー!勿体ない!」と思うと同時に自分を責めるのは、母親が悲しむ顔を見たくないから。

 

母親のお金を使って、母親を「大事にする!」と思った時に「お金は大事に大事に使わないといけない。だから、無駄遣いをした私を罰しないといけない」そんなふうに自分のことを責めて罰するのです。

 

最近読んだ漫画の中に「人のことはダメ出ししてはいけないのに、自分にはダメ出ししていいの?」という問いかけが書かれてあり、「たしかに!」と思った記憶があります。

「自分へのダメ出しは虐待」だと、はっきり書かれていました。

 

そう、自分のことはめちゃくちゃ責めるのです。

「何でもっと早くやらなかったの!」「何でもっと人に優しくできないの!」「あなたは本当にダメな子ね」って、多分自分が一番自分を罰して「良い行いをする立派な自分に育てたい」んですね。

 

だから、あらゆる角度から自分を罰して「ほら!あなたはなんてダメな子なの」といちいち証明しようとしている。

 

それが、彼氏が出来たり身近な存在ができたときに、自分と同じように罰してしまうのは、自分を投影しているからなのでしょうか?

 

「心よ、私が彼氏や他人を罰してしまう時に何が起こっているのでしょうか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それは自己投影もありますが、もっと重要なのは、あなたが自分を罰している時に何を感じて相手を罰しているのか、ですね」と言ってきます。

 

私は、友達にはわりと「いいよいいよ~」と結構気にしないでいれるのですが、彼氏が友達と同じことをすると「何でお前はそうやねん!」と鬼のごとく怒ってしまいます。

 

友達には「分かるよ~私もそうやもん」と共感できるのに、なぜ彼氏には「何お前はできへんねん!」とキレてしまうのか。

(家族、特に母親に対してもそうですね。妹には友達の距離感なので、あまりキレることはありません)

 

「心よ、私の中で、友達と彼氏、母親と他の家族に違いはあるのですか?」と聞いてみます。

すると心は「あるとしたら、あなたが相手に対して自分を投影しやすいのは、あなたが相手を認めた時に“私を理解してくれるのはあなたのみ”という感覚を抱くかどうかです」と言ってきます。

 

「心よ、その感覚は何の違いで抱くのですか?」と聞くと、心は「あなたがもし誰かに愛想を尽かされた時に相手に対して抱く思いは、あなたの支配の感情と関係がある」と言ってきます。

 

「心よ、支配の感情とは何ですか?」と聞いてみると、心は「支配されている時にあなたが感じる罪悪感や負の感情というのは、相手から流れ込んできたものもあれば、自分を罰することで自己発電している節もある。だから、支配されている時にこそ“相手を責めるは自分”という感覚を認めた方が良い」と言ってきます。

 

「心よ、相手を責めるのは自分という感覚を認めると、どうなるのですか?」と聞くと、心は「そこにあなたの意志がどれぐらいあるのかどうかが大事なのかもしれません。相手を責めたくなるのは母親であり、あなた自身は何も感じていなかったとしても、怒ることで相手との関係を悪化させて、あなたの居心地が悪くなるようなことがあると、それは支配と考えても良いのかもしれません」

 

「心よ、この場合の支配の内容を教えて」と心に聞くと、心からはこんなイメージが返ってきました。

昔読んだ芥川龍之介の『地獄変』の牛車のイメージです。

 

「心よ、このイメージが表すのは、私が親のために自己犠牲をしているということですか?」と聞いてみます。

すると心は、「それはそうですね、しかしもっと重要なのは、あなたが親のために犠牲を払っていると思っていることこそ、親のための犠牲なのである」と言ってきます。

 

親は、私の人生を犠牲にして、自分のやりたいことや望みを叶えているのかもしれない。

だけど同時に、親の犠牲になる私を見て、親自身も自己犠牲で苦しんでいるのかもしれない。

 

大嶋先生の支配者理論ですと、支配者は何の感情も持っていない。

支配者は支配するのがお仕事なので、淡々と支配するのです。

 

だから私が「両親が苦しんでいる」と想像すればするほど、私自身が苦しむ結果になる。

だって、共感で打ち消すことが出来ないんだもの。

 

「心よ、私が母親の支配から逃れるために、今必要なことは何?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたが毎日楽しく過ごすことなんですけれど、もしあなたが今、母親に罪悪感を感じているのであれば、それは母親に対する申し訳なさというよりも、あなたが自分で自分の首を絞めていることに気づくべきである」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ罪悪感を感じることが自分で自分の首を絞めることに繋がるのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが罪悪感を感じるたびに、自分の生活を犠牲にして母親に尽くそうとしてしまうから」と。

 

要は、親孝行をしなければ!と焦れば焦るほど、残りの人生を親に捧げてしまい、親が死んだあとの自分は今の親の年齢であるとすれば、その頃にはもう何も自分の好きなことに取り組むエネルギーや活力が残っておらず『親のために人生を生きた』となってしまうからなのでしょう。

 

大嶋先生の『愛』の話に、「親子の愛は自己犠牲」というのがありました。

子供は、親の自己犠牲を自己犠牲で返す必要があるのか?

そこから何かが生まれるのか?

自己犠牲を自己犠牲で返している内に、家族との閉鎖的な環境から抜け出せなくなって、外の人間関係が築けないような気がしてきます。

「だって、親を無視して生活できないもの」と家族に献身的になればなるほど、外の世界との繋がりが薄くなる感じです。

 

昨日まで「母親のお金を使う」ということに対して、半端ない罪悪感がありました。

その罪悪感に対する呪文を、昨日の大嶋先生の呪文講座の要領で作ってみると『羊羹で縄跳び』というタイトルができました。

 

『羊羹で縄跳び』と「母親のお金」を統合するとできたスクリプトは、「羊羹は道具じゃなくて、食べるもの!美味しくいただきましょう!」でした(笑)

 

私は、母親からもらったものをやたらめったら大事に保管して捨てられません。

それで物が増えていっていたのですが、5年ほど前に一度実家に帰った時に、一気に小学生の頃の学習机を捨てました。

 

その時の父親がすごく機嫌が悪かったのですが、後から考えたら、学習机って高いし、しかも学習机を捨てる人って実はそんなにいないのではないか?ということです。

 

当時、本当に私の実家にある学習机が「邪魔やなあ」と思っていたのは、その机には本当に嫌な記憶しかないこと。

 

母親に冷たく怒られたこと、夜中まで宿題が終わらずに父親に怒鳴られたこと、抜毛症や眠れない悩み、妹との喧嘩…私は本当にそれを捨てたかったんだけど(物には記憶が宿る)、親にとってはそうではなかったのかもしれない。

「捨てたい思い出」と思っていたのは、私だけだったのかもしれない。

 

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芥川龍之介さんは、『鼻』が一番好きな話だったりしますが、今回ブログに出てきた『地獄変』を貼っておきます。

後味悪いかもしれませんが、真の芸術を追うとこうなるのかもしれないし、私にもそんな側面があるのかもしれないと考えさせられる物語です。