無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

しわ寄せは明日に回さない。

「ま、明日やればいっか」が何回も何日も続くと、やがてやるのが面倒くさくなるほど山積みの用事がそこにあります。

 

そうして目の前の山から逃げて、下に流れる美しい渓流ばかりを眺めているのです。

 

「あの山に登れば、私の欲しいものがあるのかも」と思う反面、その山に登る苦労と要する時間を考えると、とても億劫になってしまう自分がいるのです。

 

だから丘の下でサラサラと流れる渓流を見ながら、「ああ、私もいつかあそこに住みたいな」とそんなことを考えるのです。

 

だから私は「明日に回そう」と思った時に、同時にその美しい渓流を見ながら「私の家は泥水が流れている」ということを何度も無意識化で確認してしまっているのです。

 

私は、部屋が片づけられない人でした。

それどころか、物事に取り掛かるまでの時間がかなり掛かり、集中力もすぐ途切れるような典型的なのび太くん!みたいなところがありました。

 

そして、人に頼らずに自分でやりたい!というプライドもあったものだから、やるのが遅い上に仕事にとても時間が掛かってしまうわけなんです。

 

もっと要領良くやればいいのに…と自分でも思うんだけれど、要領良くやると自分の中の何かの才能が潰れてしまうような気がして、自分のやり方やこだわりを曲げることができなかったんです。

 

きっと他人から見たら「何でそんな要領の悪いやり方でやってるの?」と突っ込まれるでしょう。

 

一個は、読書ですね。

 

私の読んだ本や参考書は、ほぼ全ての文章にマーカーが引いてあり、ほど全てのページに付箋が貼ってあり、ほぼ全ての文章をそのままノートに書き写しています。

 

他の人が見たら「どこが大事か逆に分からない」ということらしいですが、私にとったら「要領良く記憶するには、書き写すのが一番!」と思っていたり、「二度教科書を読むのが面倒だから一回で覚えられるように」とやっているのがこの方法なようなところがあるのでしょう。

 

だから、何をやるにもすごく時間が掛かるから、それで小学生の頃はよく学校で怒られてたんですね。

 

食べるのも遅いし、宿題するのも遅いし、何をしてもちょっとどんくさいところがある世間知らず。

 

そんな私が大嶋先生の本と出会って気づいたことはたくさんあって、たとえば「自分が知能が高いかもしれない」ということや、「自分は他人から嫉妬されていたのかもしれない」ということですね。

 

それらが分かってじゃあ何やねんと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、知らないままでいることと知っていて取り組むことには大きな違いがあるわけです。

 

たとえば、嫉妬された時に謎に相手の機嫌が悪くなるのを知らなかったら、「あ、私が何か悪いことをしたのかな…」と落ち込んで自分のせいにして、一生懸命相手のことを考えて動こうとします。

 

だけど相手がただ単に自分の能力に嫉妬しているだけだと知っていたら、それに振り回されずに自分の好きなことに釣り組み続けられるわけです。

 

そうやって、一つ大きなことを知れたのは「自分がやる気がなかったり動けなかったりする時は、もしかしたら誰かに嫉妬されている可能性があるのかもしれない」と考えられるようになったことです。

 

大嶋先生のある本に「自分が嫉妬する自分になる」という言葉が出てきていて、それは現在の私の御守りのような言葉なのです。

 

そう、「明日に回そう」というのは、嫉妬で潰されたままの自分を放置しているのと一緒なのかもしれません。

 

やるべきことを後回しせずにやることで、「おー!自分ってこんな才能あったんだ!」と自分が一番に自分をリスペクトしてあげて、そして他人からの嫉妬も蹴散らしていく。

 

「私なんか尊敬されるところはない…」と謙虚になったり下の二割になることで、どんどん脳のネットワークでストレスを垂れ流されてしまいます。

 

だからきちんと健康な優越感を持って「自分をリスペクトする」と思った時に、「やるべきことを先延ばしせずにやる自分はなんて大人なんだ」と子供の思考回路から大人になって、嫉妬を跳ね飛ばせる体質になるのかもしれませんね。

 

まあ、一種の動けるようになる方法だと思っています。

 

鈴蘭の幻想と孤独

鈴蘭、と聞くと、私はあるRPGゲームを思い出すのです。

それは北欧神話を元にした戦乙女のお話なんですけど、私は子供ながらにずっと「戦乙女になりたい」と思っていました。

 

なぜ戦乙女になりたいと憧れたのかというと、やはりその美しさや強さなのでしょう。

魂を選別するお仕事というよりは、「自分がいかに強く気高いか」が当時の私からしてもとても大事だったのだと思います。

 

それは今でも変わらなくて、私は自分が理想とする自分というのは、いつもどこかで「孤独」を抱えながら生きている女性だったのです。

 

なぜ、こんなことを思い出したのかというと、私はインサイト・カウンセリングの2回目のセッションで「あなたの偽りの快感のコードは“孤独”です」と伝えられたからです。

(事実はもう少し違った表現でしたが)

 

私は、インサイトで治療を始めてから、もう4年ほどが経っています。

その間、律儀に毎週カウンセリングを受けている時もあれば、半年空いたりしてまた再開したり…ととても不規則でした。

 

私は当時『孤独』ですと伝えられても、「なんだ、普通だな」とぐらいにしか思っていませんでした。

 

だけど、改めて偽りの快感や支配の理論について考えたとき、この『孤独』というのは何て奥が深いんだろうと思ったのです。

 

そう、単純に孤独なのではなく、偽りの快感が『孤独』なので、どうしたって『孤独』になる方に引っ張られていくのです。

だって『孤独』でひとりぼっちで苦しいのが、「心地よい!」と感じているわけだから。

 

そういえば、大嶋先生からGABRG2の遺伝子コードを教えていただいた時も「一体感が無理なんだよね~」と仰っていただいていたので、どうしても「人と仲良くなる」「親密になる」が苦手なわけなんですね。

それで、去年か一昨年には「愛着が回避型」というナラティブの診断名もついたので、「ああ、なんだ私は孤独がずっと好きだと思っていたけれど、そっちは偽りの快感」とようやく気付くことができたわけなんです。

 

もちろん、孤独自体は悪いものではありません。

私の場合、何が問題になっているのかというと、『孤独』という偽りの快感があるがゆえに、せっかく仲良くなったり慕ってくれている人を一刀両断しちゃうというか、なんかチクチク嫌味な感じを出しちゃって遠ざけてしまうわけなんです。

 

「結局、自分は一人ぼっちなんだ」といじけて浸るような感じに近いですよね。

まわりにはあたたかい人間関係が広がっているのに、「どうせ誰も助けてくれない」というような感じに近いです。

 

だけど、大嶋先生が書籍か何かで仰っている『孤独』というのは、人はみな「自分は一人、あの人も孤独」と認めた時に一体感が生まれるというミラーニューロン的な話だったと思います。

 

そう、自分の孤独や他人の孤独を認めた時に、はじめて見える世界がある。

 

人は「自分だけが!」と思うと、発作を起こしやすくなります。

でも、よくよくまわりを見回してみると、自分だけではなく、みんなと繋がっているわけなんです。

 

だから、今「自分だけが!」と思っているその感情は、目の前の人のものかもしれないし、家族から入れられたものかもしれない。

何一つ「自分の感覚ではない」と捉えた時に、そこには凪の世界が広がっているのです。

 

支配されることが悪いことでもないし、支配されないように生きることが素晴らしいものでもないと思います。

支配から抜ける時が一番辛くて、でも、それでも誰かの支配ではなく「自分らしく自由に生きたい!」と思った時に、そこには確かに今まであなたが歩いてきた道標が立っているのだと思います。

 

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大嶋信頼先生『誰もわかってくれない「孤独」がすぐ消える本』

 

私はこの本を読んで、今まで無自覚だったけれど頻繁に「私だけが!」という被害者意識にも似た孤独感を持っていることに気づきました。

 

ナラティブで書かれているので、頭の中に内容はほぼ残っていませんが、読み終わった時に目の前のイメージとして出てきた「沼のまわりにたくさんの色とりどりの花が咲き乱れている」光景は、今でも忘れていません。

 

「私だけが損している!」「私だけが惨めである!」「私だけが嫌われている!」「私だけが苦労している!」

そんな感情は万能感にも繋がるのかもしれませんね。自己肥大化とか。

 

だけど、そうやって「私だけが!」と思っている内に、どんどんどんどん底なし沼に落ちていって、もがいても抜け出せないような感覚がずっとありました。

 

「私のこの孤独は、本当に私のもの?」と心に聞いたとき、大抵私じゃない人のものだと答が返ってきます。

 

だから、他人の孤独感を自分のものにして背負ってしまって、余計に沼にズブズブと沈んでいくような体の重さや怠さがあったのかもしれません。

 

孤独感は悪いものではありません。

孤独の中には、本来、凪があります。

 

孤独の発作を打ち消すために、この「孤独の本」はとてもオススメです。

 

あなたは一人じゃない。

ちゃんと無意識化で、みんなの「孤独」と繋がって共有しあっているんだ。

 

 

私は私であって、他の誰でもない。

私は誰かの影響によって人格が変わってしまったり、発作的に怒ったり泣いたり、そんなことが多い人生でした。

 

だから、母親や彼氏と呼べる距離感の人によく「多重人格」だと言われていました。

それだけ、別人だったのでしょう。

 

問題は、モラハラ男のように突然怒り出し、突然優しくなるという、そんな乱高下を繰り返して自分でも止めることが出来なかったのです。

 

だから私は、いつも自分で自分を罰していて「あなたはダメな人間なの」と呪いの暗示を掛けていたんです。

 

今にして思えば、それは母親からの影響であったり、支配者の彼氏からの裁きだったのかもしれません。

 

だけど私は、ひたすら自分が悪いと思って、自分を裁き、そして人を裁いていたのです。

 

そんなある日、私はある雪の日に、静かに音を聞いていると、なんと天使のような声が聞こえてくるのです。

 

よく耳を澄まそうと思うと聞こえなくなって、だけど窓から離れた途端に声が聞こえるのです。

 

「なんだ?」と思って、今度は窓に近づかず遠い距離から、窓の外の音に耳を傾けてみました。

 

すると、天使の声は「あなたは大丈夫」とささやいているのです。

 

私はその声を聞いて、なんだかとても安心して、毎日ゆっくり眠ることが出来なかったんだけど、その日はとてもゆっくり眠ることが出来たんです。

 

また、ある日、同じく天使の声を聞いたきがしました。

 

それはまどろんでいる布団の中、部屋のドアから天使が入ってきて、スーッと私の上に覆いかぶさって消えたのです。

 

そうすると、なんだか自分に力がみなぎってくるような感じがして、私は「1人じゃないんだ」と思うんです。

 

この時のことを心に聞いてみると、「心よ、これは本当に天使だったのですか?」と聞くと、心は「そうですね、あなたの心が作り出した幻想はとても美しいので、時に天使に見えるのかもしれません」なんて答えてきます。

 

「心よ、心が作り出す幻想とは何ですか?」と聞くと、心は「それはあなたが心の中で頼りにしているもの───たとえば、あなたの母親が作り出すルールなんかは、天使に例えるととても美しい音色かもしれませんね」と言ってきます。

 

「心よ、それではあの天使は支配なのですか?」と聞くと、心は黙ったきり、何の返答も返して来ないのです。

 

私は実は知っていたのです。

あの天使が、もしかしたら支配者なのかもしれないということを。

 

だから、今でも母親の元に戻るときは気合いが入ります。

母親と関わると謎にイライラしたり、落ち込んだり、気持ちが不安定になるからです。

 

だから私はその度に「あーあ、母親と関わらなければ良かった」と思うのですが、それが天使の罠なのかもしれません。

 

なぜなら、「母親の元が一番居心地が良い」という暗示を、私は入れられたまま、同時に母親を憎しみ続けてきたから。

 

母親は今年、何歳になるのだろう。

私とは28歳違うかったはずです。

 

私は、母親が私を産んだ年齢で私も出産をしたかった。

その年齢を過ぎた私は、パートナーを探すことも結婚をすることも子供を望むことも忘れていたんだ、と今さら気づくのです。

 

そういえば、ある人に読んでいただいたスクリプトには、クリスマスケーキと母親が出てきていて、クリスマスは私が誕生日の次に大事にしているイベントなのです。

 

クリスマスというと、私はずっとサンタを信じていたのだけれど、中学に入った年の冬に母親から「あんたはもう知ってるだろうけど、妹には内緒やで」と言われたことが衝撃的でした。

 

確かに私と妹は毎年、サンタの正体を見ようと必死に起きていましたが、結局一度も確認することはなかったのです。

 

私は、きっとずっと母親から愛されていたかった。

だけど、大人になった今、母親の愛がそれはもう鬱陶しい(笑)

 

これはきっと、遅い反抗期が私をトラウマから救って変えてくれるのだと、そんな気がしているのです。

大晦日から人生が変わる瞬間~新年~

昨日は大晦日でした。

私が自分の誕生日の次に大切にしている日が、12月31日です。

なぜかというと、大晦日をどう過ごすかによって、来年一年がどんな年に決まる…というジンクスを信じているからです。

 

私は結構なジンクス人間で、高校の頃なんか「この信号が青に今すぐなればあの人と付き合える」とか、「この時間に間に合えば、人に怒られない」とか…まあ、要はいつも時間ギリギリの生活をしていたから、自分を奮い立たせるためにもジンクスという名の賭け事が必要だったんだと思います。

 

それで、私はそんなギャンブラーな生き方をしてきたわけだから、いつも一歩先はどうなるか分からずに心配と不安でいっぱいいっぱいだったんです。

もちろん緊張感も高いわけだから、ある意味やっぱり人生に「スリルを求めていた」となるのです。

 

私は「口唇期」の問題が残っているのか、まだ人生でスリルを求めることが多いんです。

 

口唇期というと、母親から適切なタイミングでミルクを与えてもらわなければホルモンバランスが安定しない、というお話でしたが、このホルモンが安定しないと常に刺激を求めてしまうようになるのです。

 

どういうことかというと、淡々と安定した物事を繰り返し行っていればいいのに、「なんか物足りない!」と思って余計に仕事を増やしちゃうんです。

刺激がないと安定しないというか、そう思っているのか。

 

だから、いつまでたっても同じ失敗を繰り返してしまうのです。

やり過ぎてしまって、自分を破壊する行動ですね。

 

この自己破壊行動を止めたいんだけど、止めてしばらくは淡々と出来るのです。

でも、何だか途中で焦ってしまうのは、やはり母親の支配なんでしょうね。

 

心に聞いてみましょう。

「心よ、私はどうして淡々と物事ができないのでしょうか?」と聞くと、心は「そうですね、それはあなたが淡々と物事を繰り返すことで母親の嫉妬を浴びる状態になるから」と言ってきます。

 

「心よ、どうして淡々と物事をこなすと母親の嫉妬を浴びるの?」と聞くと、心は「そうですね、それはあなたが支配から解放されたい気持ちを悟られるからかもしれませんね」

 

「心よ、私が淡々と物事を継続して、仕事を成功させる呪文を教えて」と聞いてみると、心は「それはGABRG2の還元」と言われます。

 

「心よ、どうしてGABRG2の還元なの?」と聞くと、心は「それはあなたの支配が母親の影響であるのなら、母親から入れられている偽りの快感は“人を欺いて許す快感”だから」と言ってきます。

 

「心よ、それは自分が神になろうとしているのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、だから唱えて治した方が良い。GABRG2で人嫌いを治せば、あなたは母親からの支配を抜けて、本来の自分らしく生きることで能力を発揮できる」と言ってきます。

 

「心よ、私はどんな仕事が天職ですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが望むものというよりは、淡々とこなしていった先にあるもの」と言ってきます。

 

それこで思い出したのですが、私は「ストレスを受けると何か食べたくなる!」という発作があることに最近気づきました。

これはGABRG2で発作を治めることができるんです。

 

きっと、トラウマで人嫌い・人が苦手となっている人は、人との距離感が本当に大事で、自分の感情や時間や価値観を共有し合おうと思った時に、人からの発作をもらったりすることがないようにするのが、とても大変なんだと思います。

 

だから、「人に巻き込まれない距離感」というのが大事で、私の場合はそれが「自分の時間を持つことで自分軸を形成する」ということなんだと思っています。

 

「自分軸」というのが分かれば、軸がブレた時に真ん中に戻す作業を繰り返すだけで良い。

わざわざ「本当の自分とはどれだっけ!」と闇雲に探す必要がなくなる。

 

心は自由です。

だから、決めつけや押しつけではなく、自由に人を愛する人生になれたら良いなあと、そんなことをずっと考えてここに記すのです。

(全て心に聞いて書いています)

あなたの道はあなたが決める。

今日の雨はとても冷たくて、明日からより一層冬になっていくのかもしれないですね。

 

私は、冬が大嫌いです。

なぜなら、寒いから。

でも、クリスマスは大好きです。

 

私は、雨が嫌いです。

なぜなら、濡れてビチョビチョになるのが気持ち悪いから。

 

だから私は、こうやって自分の好き嫌いを確認するたびに、何か自分の中のアイデンティティが決まったいくような感覚があるのです。

 

「自分のことは自分で決める」とよく言いますが、自分で決めたつもりであっても誰かの意見を取り入れていたりはします。

 

だから、本当の自分のオリジナルの意見を聞く時には、私は「心よ、」とタグをつけて心に聞くのです。

 

心は正直だから、まれに嘘も言うかもしれませんが、基本的に聞きたいことは何でも喋ってくれます。

 

だけどもし、私が心に聞くことに抵抗があるとすれば、私自身が自覚がなかったとしても、心は嘘をつきます。

なぜなら、心は優しいから。

 

私は心の声に従うことで、心との信頼関係を築いていきます。

だけど心は、心の声を無視したとしても、決して怒ったりはしません。

 

常に私の味方であり、私が気がつかないことをたくさん教えてくれる。

 

でも、一つだけ疑問があるとすれば、「心は何者なのか?」ということなのです。

これはもう何度も何度も心に聞いていますが、結局のところよく分かりません。

禅問答のような感じで、私が何を聞いてものらりくらりとかわされているような感じに思える時もあります。

 

「心よ、あなたは何者ですか?」と聞くと、大抵は「私はあなたであり、あなたは私である」と返ってきます。

 

だから今日は「心よ、私って誰ですか?」と、ちょっとゲシュタルト崩壊しそうなことを聞いてみる。

 

そうすると心は「そうですね、あなたの母親とかあなたの父親とかが知らないことを知っている親戚のおばちゃんみたいな存在です」と言ってきます。

 

「心よ、それはどういう意味?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたは知らないかもしれませんが、私はあなたに寄り添いここまで生きてきました。だからあなたも私を生きるために頼ってくださって、私もあなたのために生かされています。だから正直あなたが何者であったとしても、私はあなたを信じているし、あなたも私を信じてほしい」と返ってくるのです。

 

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雨の日は、家の中で静かに読書をするのが好きです。

そして、私は読書する時は必ずアロマキャンドルと灯しています。

 

かなり愛用しているのは『ジョーマローン』のアロマキャンドルです。

 

どの香りも良い香りなのですが、特にお気に入りなのはポメグラネートとミルラ&トンカ、ダークアンバー&ジンジャーリリーとヴェルベッドローズ…

 

一つに絞り切れないですね(笑)

 

ここには二つだけリンク張っておきます!

キャンドルは甘い香りが幸せになって良いです。

 

また、ジョーマローンのキャンドルは、香りが濃厚で深い感じがします。

 

 

もう一つオススメのアロマキャンドルは、『Francfranc』のキャンドルです。

 

芯が木でできているので(紐ではない)、キャンドルを灯すと「パチパチパチ…」と焚火をしているような音が微かに聞こえてきて癒されます。

 

最近は紙のお香なんかも焚いていますが、5分ほどで消えてしまうので、キャンドルとともに雨の日を過ごすのはとても自分の中ではリッチな気分になります。

 

ちなみに私が愛用しているお香です。

 

焦らず夢を見ることで自分が整えられていく

私はいつも常に何かに焦っていて、心が休まらない学生生活を送っていました。

 

田舎の学生なので近所には田んぼしかなく、当時はコンビニもなかったので、本当に暇で暇で仕方がなかったんです。

 

じゃあ、お前は何をやりたかったんだ?と言われたら、やりたいことが分からない。

自分が何をやれば満足するのかを知らなかったんですね。

 

今でもそうなのですが、恋愛をするとそこのところがぼやけてきます。

何故なのかは分からないけれど、なぜか自分が好きなことをするよりも相手と一緒にいることを選んでしまうのです。

 

その結果、話の面白くない相手に対して時間をムダにした気分になったり(失礼な!)、相手と時間を共有すればするほど「自分のやらなければならないこと」というのが見えてきてしまって絶望してくるのです。

 

ああ、あれもやってない。これもやってない。

本来なら好きな相手と一緒にいることで休まる心というのが、逆に焦る材料になってしまっているんですね。

 

だから私は常に焦っていて心が休まらないどころか、相手のせいにして怒りが止まらなくなってしまいます。

 

この、相手にとっては理不尽極まりない言動なのですが、じゃあなぜ私がこうなってしまっているのかというと、常に「相手のために」と自己犠牲をしているところが問題なのでしょう。

 

「相手が喜ぶから」とか「相手がこれを望んでいるからしてあげる」ということをする内に、どんどんどんどん自分の時間を削っていって、やがて「相手のために生きる自分」というのが出来上がってしまいます。

 

だから私は、本来は自分のために時間を使わないといけないんだけど、それでも自分のために時間を使うことが罪悪感に繋がるのであれば、それは一体誰に申し訳なく思っているのか?なんですね。

 

私がきっと申し訳なく持っている相手というのは、十中八九「両親」でしょう。

だけど両親にどんなことを思って、申し訳なく思っているのか?

 

それはきっと心に聞いてみると、こういった答が返ってくるに違いないというものがあります。

だけど、知らないふりをして一応聞いてみるのです。

「心よ、私はどんなことで両親に罪悪感を感じているのですか?」と。

 

そうすると心は「そうですね、あなたが両親に罪悪感を感じていることといえば、たとえばお金のことですかね」と言ってきます。

 

まあ、なんとなく心当たりがあります。

 

「心よ、私はどうして両親にお金の罪悪感があるのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それはあなたが親の金を使って学校に行ったこととか、親のお金で遊ぶこととか、そんなところに罪悪感が隠れていて、じゃあどうしたらいいのかというと、親のお金を使って盛大に遊ぶこと」と言ってきます。

 

「心よ、親のお金を使って盛大に遊ぶと、どんなことが起きるのですか?」と問いかけると、心は「そうですね、それはあなたが唯一持ってる罪悪感なので、あなたがお金の罪悪感を手放すと自由に遊べる」と言ってきます。

 

「心よ、自由に遊べるというのは、何をして遊ぶのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、遊び方というのはさまざまあるんだけど、あなたの場合は寝ること・ダラダラすること・食べること・時間をムダに使うこと」と言ってきます。

 

「心よ、それらをするとどうなるのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたがダラダラしたり好きなことをすることによって、お腹の調子が整って元気になる!」と言います。

 

つまり、体の調子を整えることで、自分の焦りや怒りが少なくなるということなのかもしれません。

 

「心よ、私のお金の罪悪感は何歳のものですか?」と聞いてみると、心は「3歳」と答えてきます。

 

「心よ、3歳の頃に何があったのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それはあなたが知らない内に、自分の中で“価値あるものと価値のないもの”の区別がついてきた時期ですね」と言います。

 

「心よ、それとお金の罪悪感がどう関係あるのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが一番良く知っているでしょう。だって“お金がないと遊べない”と思っているのだから」と言ってきます。

 

つまり心は、「お金がなくても遊ぶ方法はたくさんある」と言っているのでしょうか。

でも、なぜ「遊ぶ」話になっているのかは分かりません。

 

だけど、私はそういえば、「遊ぶ」のがとても苦手です。

たとえばケイドロも苦手だし、鬼ごっこも嫌いです。

かくれんぼも緊張するので怖い。

 

昔、小学生の頃に鬼ごっこをするからと言われた時に即行で「じゃあ、門限があるから帰ります」と言ったことがあります。

それだけ誰かと遊ぶのが怖くて緊張します。

ああ、そうだ。大富豪とかも苦手ですね。いっせーのーせとかも。

 

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遊ぶとなると、どうしてもガチになってしまいます。

ボウリングでも縄跳びでもなんでも、競争することが好きなのか、競争したくなってしまうのか。

 

だから、「遊び」というかマウントの取り合いというか、人間関係が上手く構築できない理由にはそこにもあったのかもしれませんね。

 

それは人との会話の中でもあって、ただ話を聞いて同調すれば良いのに「自分の方がもっと!」と思ってしまう。

 

もし、「時間をムダにしたくない」というそんな気持ちがある時は、逆に思いっきり時間をムダにして使ってみてもいいのかもしれません。

 

私的に一番「時間のムダ!」と思っていたことは、実は『瞑想』ですね。

瞑想を始めた途端に体の至るところがかゆくなったり、全然集中できなかったりとするのは「こんな時間ムダだから!」と思っているから。

 

だから、もしあなたが「効率的に時間を使いたい!」と思っているのであれば、まずは自分の体の声に耳を傾けると良いのかもしれません。

 

思うように体が動いている人は、そもそも「効率的にもっと動かねば!」と思っていない可能性があります。

 

私が呼んだ中でも瞑想の本で分かりやすいのがこちら。

 

 

 

私は正直「瞑想って何やねん」と思っていました。

ただ目を閉じるだけで何が変わるの?と。

 

でも、そうではなくて、瞑想とは「自分の体の中心に軸を整える」ことなんだと思います。

 

瞑想をして、他に思考が飛びそうになった時に「今ここ」に戻ってくる。

 

人間は、チャンスも人脈も活かせる時は「今ここ」をちゃんと生きて適切に表現できている人なんだと思います。

 

だから、私は過去でもなく未来でもなく「今ここ」に、戻ってくる必要がある。

 

瞑想をして「あ、今飛んでた」という瞬間をきちんと感じることで、自分が普段どんなことを気にして何を考えているのかを把握することができるのかもしれません。

 

まあ、それ以外にもたくさんの効果はあります!