無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

闇があったら光がある

今週のお題「人生変わった瞬間」

 

私の人生が変わった瞬間というのは実は何度も経験していて、そのひとつが「両親の元を離れて家を出た」ことですね。

 

私の中で、自分が自活して生活できる自信が全くなかったのです。

だから親元を離れて一人で暮らす自信もなければ、誰かに頼らずに一人で生活する術も自分にはないと思っていました。

 

私は家を出るまで自分で料理を作ることはおろか、掃除も洗濯も母親任せだったのです。

むしろキッチンや掃除用具を引っ張り出すと母親が怒るので、私は家の中の何もいじれなかったのです。

 

そんな私が、母親との大ゲンカをキッカケに家を出て初めて見た世界は、優しくもあり厳しくもあったのです。

 

当時はすぐに彼氏の家に転がり込んだので、どちらかというと親代わりを彼氏がしてくれていました。

 

だけど、私は電子レンジの使い方も知らなかった。

 

そんな世間知らずな私にマウントを取ってくるかのように彼氏は横柄な態度になっていき、私たちはやがて何回目かの別れを経験した。

 

私が家を出て気づいたことは、たくさんありました。

 

たとえば、私は意外と料理が好きだということ。

また、いつも母親の手料理を食べていたけれど、自分で作った方が美味しい料理もあったこと。

 

私は意外と掃除や洗濯が得意だったこと。

実家にいる時はいつも足の踏み場がなく、「片づけなさい!」と怒られたりしていました。

 

だけど、一人暮らしの夜が本当に怖くて、当時の彼氏(先程の彼氏とは別の)も怖い話が大好きで、私は夜に全く眠れることが出来なかったのです。

なぜなら、部屋のいたるところから視線を感じたり、何か見えないものを見てしまったりするのが恐ろしかったから。

 

私は人生で初めて“一人”を経験して、そしてその怖さを体験したのです。

 

家に帰っても誰もいない。

ただいまと言っても答えてくれる存在やぬくもりがない。

私は一体誰のために生きてるのだろうか…とそんな寂しさを毎日抱えていたのです。

 

だけど、私には、今からでは考えられないほど大勢の友達がいました。

たくさんの友達と繋がっているのに感じるこの寂しさはなんだろう?と思った時に、毎晩強烈に胃が痛くなるのです。

 

それは意識的に考えると「タバコの吸い過ぎ」であるとか「ご飯を食べなさ過ぎ」であるとか、そんなことを思うのだけれど、当時の私は常に何かに怒っていたのです。

 

それで何度も胃カメラを飲んで確かめるけれど、そこにはピロリ菌はおろか、何の問題もないキレイな胃なのです。

 

だから私は「自分には問題ない」と思って毎日を過ごしていたんだけれど、やっぱり胃は痛いし、毎日毎日不安と罪悪感で押しつぶされそうだし、自分が何に怯えていて何に怒っているのかが全く見当つかなかったんです。

 

私は当時、仕事が全く上手く行かず、会社に盾をついてはクビになり、上手く人間関係を構築できないので、家に帰った後のストレスが半端なくて夜中を過ぎても眠れなくて、いつも眠るのは明け方過ぎでした。

 

そんな生活を送っていたから慢性的に寝不足で、寝不足を解消するために休日に夕方まで寝る生活をすると夜にまた眠れなくなって、しかもその不安感も大きくなっていくものだから、どんどんどんどん私はやりたいことが出来ずに、母親への罪悪感と未来への恐怖感で押しつぶされそうになっていったのです。

 

新しく出来る彼氏に当たるか、自殺未遂をするか、浮気をされるか…そんな同棲生活を繰り返し、私は自分の居場所をさらになくしていったのです。

 

そんなふうに常に自分の息苦しさから解放されたいのに、心理学を勉強しても、本を読んでもネットで鬱病について調べても、私の息苦しさがなくなることはありませんでした。

 

だから私は一生あのまま苦しいのだと思っていて、現在のように心に凪が訪れることなどもう死ぬまでないのだと信じていました。

 

転機は、ある日本屋に行った時に見つけた、一冊の分厚い緑の表紙の本です。

大嶋信頼先生の『それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも?』というタイトルの本です。

 

私は、この本に出会ったことで、大きく人生が変わりました。

 

今までどの心理学書を読んでも解決しなかった胸の苦しさや罪悪感の正体が、この本に書いてあったのです。

 

私はこの本の内容を一度で理解したわけではないです。

一度目を読んだ後には「私にはトラウマがあるかもしれない」と思ったけれど、カウンセリングを受けるほど重症ではないと思っていたんですね。

 

だから、読んでも「〇〇の恐怖」を特定することもせず、ただちょっと心の仕組みが分かっただけだったんです。

 

だけど数年後にもう一度、この本と真剣に真面目に向き合ってきた時に、ちゃんと最初の一ページ目から読むと、確実に自分の心が穏やかになり癒されていくのを感じたのです。

 

私は、本を1ページ目から読まない人でした。

だけど大嶋先生の本は催眠スクリプトになっているから…と思って最初のページから読む習慣が出来て、そうすると大嶋先生以外の他の本も1ページ目から読むようになったのです。

 

私がこの本と出会ったとこで起こった変化は「自分にトラウマがある」と認めてカウンセリングを受けたら、とても楽に生きられるようになったこと。

 

そうしてもう一つの変化は、それまで自分の身体感覚を感じることが出来なかったのに―――たとえば自分がトイレに行きたいタイミングも分からなかったし、お腹が空く不快感というのも知らなかった―――自分が今「お腹が空いている!」とか「トイレに行きたい!」といったことを自覚できるようになったことです。

 

私は恐らく「解離」している人でした。

自分の感覚を適切に感じることが出来ずに、誰かの感覚で生きてきた共依存だったのかもしれない。

 

そうやってひとつずつ自分の感覚に気づいていくことが出来ると、今度は自分が「何を求めていて、何に不快感を感じるのか」ということも分かってきた。

 

私は子供の頃から「好き嫌いがない子供」で通っていた。

パセリも食べるし、ニンジンの食べる。

 

だけど、自分の感覚を取り戻した時に、食べ物の好き嫌いができたことには驚いた。

 

きっと母親の感覚で「好き嫌いがあってはいけない」と思っていたのでしょう。

 

そうやって好きなもの嫌いなものがハッキリしてくると、次第に私は生きやすくなってくる。

呼吸がしやすくなって、体の怠さも取れていく。

 

そうしたら今度は、常にむくんでパンパンだった顔のむくみが取れてシュッ!とした輪郭になれたのです。

 

すうと今度は美容に力を入れるのが楽しくなり、だんだんとオシャレに磨きがかかり、美しく変身していく自分を大好きになっていくのです。

 

私は、自分のことが大嫌いでした。

醜いし、自立していなくて何も自分一人の力で成し遂げられないし、いつも母親の影に隠れて子供のままの精神状態でした。

 

だけど、自分の中の母親を捨ててみた時に「あ、私はこんなことが得意だったんだ!」「こんなことをしたかったんだ!」というのがたくさん出てきたのです。

 

だから、世の中のみんなに「母親を捨てろ」とは言わないですが、もし今あなたが苦しい思いをしているのならば、一歩踏み出す勇気に大嶋先生の著書は如何でしょうか?

 

私の一番のオススメはやはり『トラウマちゃんの本』ですが、それ以外にもたくさん素晴らしい本を書かれています。

 

あなたの人生を変える時のお供に、ぜひ。

 

―――――

私の人生と視点、考え方を変えた一冊。

「〇〇の恐怖」×7回唱えるという、大嶋先生独自のトラウマ治療法が載っています。

 

難しいかもしれませんが、きちんと読み込むと、これだけでかなり生きやすくなるのかもしれません。

 

せっかくなのでもう一冊オススメさせていただきます。

 

大嶋信頼先生のモーニングルーティンの本。

私はこれで寝起きが楽しみになったのと、それからこの本にはたくさんの毎日簡単に実践できるノウハウが載ってます。

 

短時間で「自分軸」に戻して楽に生きる方法を試してみましょう!

 

白馬に乗った王子さまはやってこない。

白馬に乗った王子さまはきっと、私の前に現れるのは何光年先なのかもしれない。

 

だけど、私はいつまでも「自分を救ってくれる王子さま」の存在を夢見て、今日もがんばって生きるのです。

 

「良い子にしていたら、サンタさんがプレゼントをくれにやってきてくれる」と同じことのように、「私が清く正しく良い行いだけをしていれば、白馬に乗った王子さまがやってきてくれる」とそう信じていたんです。

 

でも、現実は「良い子」になって相手の話を聞いて共感してあげればあげるほど、なんだか自分の中からどんどんどんどん吸い尽くされて、「相手のワガママを聞いてあげなければならない!」という状況になりがちです。

 

私が女神さまになればなるほど相手は発作を起こして、私に何を言っても良いしても良いじゃないけれど、だんだんふてこい態度になってくるわけなんです。

(“ふてこい”というのは関西弁で、“ふてぶてしいやつ”という意味です。まあ、相手の態度がでかくなるんですね)

 

だから私は自己犠牲をやめて、相手に尽くす自分よりも「自分に尽くす自分」にならないといけない。

 

では「自分に尽くす」とは、具体的にどういうことをやればいいのか?

心に聞いてみます。

 

「心よ、私はどう自分に尽くしたら良いのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたは過去の体験から“自分が尽くさないと関係が成り立たない”と思っているかもしれませんが、自分に尽くすということで自己犠牲をやめるというよりは、ちゃんと自分のために時間を割いてください」と言われます。

 

「心よ、私は今、自分のために時間を割けていませんか?」と聞いてみると、心は「そうですね、時間を割けていないと言えばいませんが、もしあなたがもっと人生を楽に生きたいのであれば、時間を効率的に使うことよりは“何に専念したいのか?”焦点を絞ることです」と言ってきます。

 

「心よ、私は実際、何に専念すれば人生が上手くいく状態ですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたは自分が思っている以上に疲れていたりしんどかったりするかもしれないけれど、健康に注意をするというよりは、あなたはもっと美味しいものを食べて、歯磨きをちゃんとして、寝ること。これだけで十分です」と言ってきます。

 

心は正直に私の今の状態を教えてくれたりします。

 

もし私が今、動けないのなら、それはなぜかというのも答えてくれたり、自分の思っている範囲以上の“無意識の領域”での回答をくれるのです。

 

だから心に「心よ、私が時間に間に合わないのはどうして?」と問いかけると、心は「そうですね、それはそもそもあなたが“時間に間に合いたくない”と思っているからでしょう」と言ってきます。

 

「心よ、それは私が相手をリスペクトしていないからでしょうか?」と聞くと、心は「そうではありません。どちらかというと、あなたのリスペクトというよりは、無意識が“それをしたくない”と拒んでいるからでしょう」と答えてきます。

 

「心よ、どうして無意識が“それをしたくない”と拒むのでしょうか?本当にしたいことではないからですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、本当にしたいことしたくないことの境界線は非常に曖昧で、あなたが意識で考えれば考えるほど、どんどん時間に間に合わなくなっていきます。だから、“どうして時間に間に合わないの?”と考えるよりは“無意識はそれを求めていない”と思ってみると良いでしょう」と言ってきます。

 

「心よ、それは意識を棄却して無意識を起動する方法ですか?」と聞くと、心は「そうですね、その通りです。だけど意識を棄却したところで、あなたが“本当にしたいこと”に辿り着くというよりは、“したくないことを捨てる”ということで無意識を起動して、生きやすい楽な人生にしていきます」と言ってきます。

 

「心よ、それはゴミ箱にゴミを捨てるのと同じことですか?」と聞いてみると、心は「そうですね。ゴミを持ったままだと、大切なものを手に入れられないので」と言ってきます。

 

意識では「完璧にこなさないと」とか「あれもこれも間に合わせないと」と思います。

 

だけど、もしそれが「自分のしたくないこと」であった場合、意識を棄却することによって、新たな可能性が見えてきます。

 

それが「心の大掃除をする」ということで、デトックス的な何かかもしれません。

 

だから私は心の中の整理が必要で、それを整理していった時に自然と時間が整うのかもしれません。

 

だから私は大掃除をするように「何が自分に必要であって、何が自分はしたくないのか」を明確にしていくことで、自分のトラウマも同じく解消していけるのかもしれません。

 

心の大掃除は大変な作業です。

 

今まで生きてきた自分の人生と向き合った時に、人は、私は「自分が認められる人生を送ってきたのか?」ということに少なくとも直面するのかもしれません。

 

「自分が生きてきた人生」を否定することこそが、自分にとっての大きなアイデンティティを揺るがすことで、私は自分が納得する人生を送りたい!と思っていたけど、果たして本当の意味で「納得する人生」とは何なのか。

 

「心よ、私が納得する人生というものはどんなものですか?」と問いかけると、心は「そうですね、あなたが納得する人生というのは、あなたがもし死んで亡くなった時に“どういう生き方をしてきたのか”他人に誇れることかもしれません」と答えます。

 

「心よ、私にとってそれは大事なことなのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、死ぬことより生きることの方が大事なので」と返ってきます。

 

「心よ、私はどのように過ごしたら、自分が納得する人生になりますか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが私に聞いてくれたように、自分の人生で模索していくべきです。季節が移り変わるように、その時々で人生の色合いは変わっていくものです。だからあなたはその時々で自分に必要なものが変わっても良いし、自分の信じていたものを捨てることで、そこからまた新しい道ができてくるのではないでしょうか」と答えてきます。

 

「心よ、人生とは何ですか?」と聞いてみると、心は「そうですね。人生とはあなたが生きるために要するエネルギーを凝縮した時にできる大きなうねりであり、あなたが自分の“生きたい”を認めたときに、私とともに歩む覚悟があるのならば、私はあなたの人生は何ものにも代えがたい大きなうねりを見せることを約束するのかもしれません」と言ってきます。

 

―――――

人生の片付けといえば、この本です。

 

大嶋信頼先生の『片づけられない自分がいますぐ変わる本』。

 

これは、ネタバレしちゃうと「片づけ本」というよりは「トラウマの整理の仕方」が載っている本だと思います。

 

自分が生きていた人生と向き合った時に、そこに見たくないフタをしたくなるような苦い思い出があるかもしれない。

 

物には思い出が条件づけられているから、その物を捨てるのにものすごい抵抗が起こるのかもしれない。

 

心は、適切な時期に適切な方法で「心の傷」を取る方法を教えてくれます。

 

焦らずにゆっくりとトラウマと向き合うことで、ゆるやかで満たされた人生がそこには広がっていくのかもしれません。

 

 

 

吠える犬より怖いものはない 

私は、自分の時間を大事に出来ていないような気がしてならないのです。

 

たとえばそれは、ダラダラしてしまっていて時間を破壊していたり、したくもないアルバイトで仕事時間を拘束されていたり、私が「自分の時間を使っていない!」と思っている時は大抵、頭の中に「理想の時間の使い方」というものがあります。

 

だから、その「理想」を基準として考えた時に、「理想の時間の使い方」をしていない私は「ダメな子」となってしまって、自分で自分の首を絞めるようなことをするのです。

 

そうです、たとえば漫画をダラダラ読むとか、YouTubeをダラダラ見るとかそういうことをしている時、いわば「やらなければならない仕事」を後回しにして遊んでいるわけです。

 

私のトラウマはそこにあるわけなのですが、それ以上に「やらなければならないこと」―――たとえば食器洗いとかお風呂とか洗濯―――を後回しにしていることで、自分で自分を虐待しているセルフネグレクトになってしまっているのと(ほんまかいな)、そしてもう一つは、物事は「やろう!」と思わなくても『自然と出来る』というのが理想なのではないかと思うのです。

 

そうです、気合を入れて「今からやるぞー!!!!」と思ったところで、出来た試しがありません。

 

むしろ、ふと「あ、これやろ」「これやりたい!」と思った時の方が、高確率で行動できます。

 

メンタリストDaigoさんの本に、「意識で動くより習慣づける」ということが書かれていました。

 

その本に従って、私は過去に“自分が行動するのに掛かる時間”を全て記録しました。

お風呂の時間、化粧の時間、料理の時間、洗顔の時間、読書の時間………それで自分がだいたい何にどれぐらいの時間を要しているのかを理解したと同時に、「あの次はああして…」という行動を決めれば、とても楽にすんなり動けるようになるのです。

 

大嶋先生のいう「無意識を起動するには淡々とやるルーティン」というあの方法ですね。

 

私は、いろんな方法を心理的に知っています。

だけど、いくら知識があっても行動できないことってあります。

 

「分かっていても出来ないこと」って、私にはたくさんあって、たとえば「食べた後に食器をすぐ洗う」もほとんど出来ることがありません。

そういう習慣がないから、というのもあるのですが、なんかダメなんですよね。

 

それを意識で考えた時に、「食べた後すぐに自分の食べ終わった後の汚い状態を見て洗いたくない」だの、血糖値が乱高下していて動けなくなるだの、いろんな理由が思い浮かびます。

 

だけど、この前全然違う理由で催眠スクリプトを読んでいただいた後に、なんか自然と食器洗ってる自分がいるんですよ!

 

意識で考えると、「たまたまその日は休みで元気だったから食器を洗う気力や体力が残っていた」だったり、そんなことが浮かんでくるのですが、私の無意識だったらもっと違う回答をしてくるのかもしれません。

 

たとえば「心よ、私が自然と食器を洗ったりお風呂に入ったりできる時って、何が違うの?」と聞いてみると、心は「それは幸せなことがあった時」と答えてきます。

 

なるほど、本当にその通りです。

 

幸せなことがあるの脳や体の炎症がなくなるのか、わりとサクサク動くことができます。

 

だけど、たとえばサロンでお客様からご予約が全く入らず稼げない日とかは、朝が元気だったとしてもどんどんどんどん元気なくなっていて、「何もしていないのに疲れた~」となります。

 

それと一緒で、自分を責めるようなことやショックなこと、気がかりなことがあると、私の場合は頭痛がだんだん酷くなっていって、そして「何もする気力がない!」とボーッとパソコンの前に1時間も2時間も座っていたり、ある日はひたすら寝ていたり。

 

そうなんです、実は寝ると脳の炎症って治るんです。

(私の場合は)

 

だから、本当に睡眠は大事なんですけど。

(Daigoさんの本にも、睡眠を取っていないカップルは喧嘩が多いみたいなことが書かれていましたし)

 

睡眠を取らないことによって精神にも肉体にも影響が出るので「休まない」というのは本当に脳に影響を与えてしまうんだなあと日々実感しています。

 

私は、誰かが寝ていなかったら「寝なよ~」と言えるのに、どうして自分の睡眠時間を削ってまでも、いつも何かに焦っているのか。

 

焦っているだけで、結局何も出来ていないのです。

 

心ばかりが先へ先へと急ぎ、いつも体は「もう少し休ませてほしい」と言っているような感覚です。

 

ここで思い出したのが、幼少期に母親がいつも寝ていたことです。

 

甲状腺のホルモンの影響か何か分からないですが、母親は学校が休みの日にいつもベッドで寝ていました。

 

だから母親とほとんど喋った記憶はないし、母親はいつも不機嫌でした。

 

それで私は最近気づいたのですが、彼氏に求める条件というのが無意識のうちに「今日実に外に連れて行ってくれる人」だったんです。

 

母親にやってもらって嬉しかったことを投影しているのか、トラウマだからその再上演を繰り返しているのか、なかなか皆さん出不精なわけなんです。

 

どうして私は家でじっとしていられず、外に出ないと「勿体ない!」と思ってしまうのか。

 

―――――

メンタリストDaigoさんの『倒れない計画術』の本で、自分の生活行動の時間を計るということを学び実行してみました!

「意外と時間掛かってないんだなあ」というものもあれば、「あ!これ生活行動の中の時間に組み込んで考えていなかった!」という盲点もあります。

 

なぜ、自分に時間が足りないのか。

なぜ、自分はダラダラしてしまうのか。

 

そんな自分の認知の歪みを改善してくれて、前向きに取り組めるようにしてくれる本です。

 

今すぐ論理的に何か行動に移したい方にはオススメです!

 

意識でコントロールするのではなく、習慣にすることで「できる自分」を作り上げていきましょう。

 

失読症と遺伝子。

私は最近、メールを読むのが苦手です。

 

本業でも公式LINEというものをしているのですが、よくLINEの内容の取り違えをしてしまいます。

うちのサロンのオーナーのLINEも、よく読み違えてお互いに怒ってしまう事態になりがちです。

 

そうかと思えば、長文のやり取りをしていてもしっかり内容をお互い理解しあって、私も読み違えたりせず返信できているメッセージもあります。

 

じゃあ、ちゃんと内容を読めるメッセージと読めないメッセージの何が違うのか?

 

話は変わりますが、私は昔はものすごく読書家だったのに、今はからっきし本を読めません。

 

文字だけだと読めないので、カラーペンで線を引いたりイラストがないと読めなかったりするのです。

 

だから、本の全てのページにたくさんの線が引かれてあって、それを見た人から「結局どこが大事なのか分からないやん!」と言われます。

 

それが、その前に起こったのは、20代の最後に公務員試験の予備校に行っていた時ですね。

 

多分、あれはその時すでに文字が読めなくなっていたから、至るところに線を引いていて、知らない人から見たら「どこが大事な箇所か分からないやん!」という状態になっていたのだと思います。

 

だけど、公務員試験の勉強を始める前の、心理学系の大学に行ってレポートを書いている時は全くそうではなかったのです。

 

ちゃんと『大事』というところだけに線を引けていて、全ての文章に線を引くということはなかったんです。

 

その前に起こっていたのが、私は「文字に色が見える」というコミュニティに入っていて、それが“共感覚”だというのを20代の前半頃には思っていました。

 

さて、私はいつから文字が読めなくなったのか?

 

記憶力もそうだけど、“読書”というのは私の記憶力と同じぐらい、私にとって大事な能力だったのです。

 

ふと、これを書いていて「あれ?もしかして記憶力と読書って関係ある?」って思った時に、私は自分の知能のことを思い出します。

 

昨年の夏に知能検査を受けに行ったのですが、まあひどい環境で、たぶん本当はあんな環境で知能検査は行わないんじゃないか…というようなところでの検査でした。

とたえばそこは、とても狭いトイレぐらいの広さの部屋で壁が薄く、廊下や隣の部屋からギャンギャン声が聞こえてくるし、検査してくれる人は最初から色々忘れ物をするし、慣れてないからか検査はちっともスムーズじゃなくて、いちいち「ちょっと待ってください」と遮られる。

 

その内に「私が間違っているのかな…」という気持ちになってきて、だんだん頭痛がしてくるのです。

 

頭痛がすると、私は極端に認知能力と記憶力が下がり、今目の前で言われていることすら理解できないし覚えられないんです。

(ちなみにこの症状がひどすぎて、前の職場を辞める決心をしました)

 

脳梁の働きが悪いのか、ワーキングメモリーが低いから「記憶できない!」となかなか読み進められないのか。

 

一方で「記憶力いいね!」と言われることもとても多いのです。

嫌な記憶はもちろん、ムダな知識や偏った感じでの物事の覚え方ですね。

 

私はわりと「一度読んだら忘れない」というような特殊能力を過去に持っていたと思います。

 

記憶力は本当に自信があったんだけど、いつからか記憶力がどんどんなくなっていき、やがて文字が読めなくなり、LINEすら読めなくなっていく…。

 

これが「老化」だと言われればそうかもしれない。

 

そこで、先日大嶋先生の呪文講座があったので、呪文を作ることにしました。

 

「老化」と思ってみて、この無意識の扉を開けるのは「扇子と小池」です。

(結局、老化なんかい!(笑))

 

その心は…扇子を扇ぎながらゆったりと家の縁側に足を伸ばして座り、広い庭の小池を眺める。

庭には白い石が敷き詰められていて、小学校の運動場よりもちょっと小さいぐらいの大きさである。

今は夏で、私は浴衣を着てきて、扇子を扇いで顔に風を送るのです。

 

ここまで書いて、「あ、もしかして時間がないから、脳の容量が減っているのかも!」と気づきます。

 

でも、昔も時間があったわけではないんだけどなあ、とも思います(笑)

 

「老化」を受け入れられないのは、私がまだ未熟だからかもしれないし、私がまだ母親から子離れ親離れできてないからかもしれない。

 

で、結局なぜ文字が読めなくなってしまったのか?

「心よ、どうして私は最近文字が読めないのですか?」と聞くと、心は「それはあなたが休みたいから」と、上で作ったスクリプトのようなことを言ってきます。

 

「心よ、もしかして文字が読めないのではなくて、無意識に返事をしたくなくて、相手がLINEをしてこないように、わざと読めてない感じの内容を返信しているのですか?」と聞くと、心は「そうです。あなたはLINEの返信よりも自分がしたいことがある。それが大事であればあるほど、優先順位の低いメールやLINEには言い間違いが多くなる」と言ってきて「へ~!」と思います。

 

心に聞くと、私を必ず責めない答が返ってきます。

私は、自分が相手の送ってきたLINEの内容を読み間違えて送り返したことに、ものすごく罪悪感を感じます。

自分が文字を読むのが苦手だと分かっているのに、流し読みで返信してしまって、やっぱり内容を取り違えてしまっていた…。

 

「分かっているのにやめられないこと」「何度も繰り返してしまうことの裏には罪悪感がる」という大嶋先生の言葉を思い出します。

 

ということは、私が特定の相手や特定の状況で何度もLINEをちゃんと読まずに読み間違えて送ってしまうのは、私の無意識が何らかの作用で働いているとしたら?

 

「心よ、私が文字が読めないことの裏に、罪悪感があるのですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたは自分が“相手に認められていない”と思っている時に、わざと能力が低いように見せる癖があります」と言ってきます。

 

また「認められていない」話かい!(笑)

 

「心よ、なぜ認められていないと、私が能力を低く見せてしまうまたは能力を発揮できないのですか?それは嫉妬ですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それは嫉妬でもあるし、あなたが相手に許していない心がある時に、あなたは相手の前で失態を犯す」と言ってきます。

 

「心よ、私の相手に許していない心はとは何ですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが相手を信頼するに値するかどうかを知的に判断した時に、あなたの心(私)はあなたが判断した通りの現象を起こします」と言ってきます。

 

「心よ、その現象はいつも一緒なの?」と聞いてみると、心は「そうですね、それはあなたが意識しているしていないにしろ、“相手を無視する”という受動攻撃になります」と言ってきて、私はここで「なるほど!」と思います。

 

この場合の“無視”というのはメールやLINEを返信しないということよりも、「話を理解しない人」というアスペルガー症候群のような症状を出すことです。

 

あ、だから私は人からよく「アスペルガーですか?」と聞かれるのか(笑)と思うと同時に、そう言ってくる人を私は「信頼してはいけない」のかもしれない。

 

私は、FAP講座など大嶋先生繋がりで知り合った方がすごいな!と思うのは(もちろん今の本業のお仕事でもそういう方はたくさんいます)、私がどんな的外れな回答をしても、そこから繋げてくれたり汲み取ってくれる天才が多いということです。

 

「そんなこともあるかもしれない」と捉えてくれる方と、私は松竹梅(知能指数)の部分で同じものを持っていて、それで嫉妬したりされたりから無縁の関係になっていくのかもしれない。

 

――――

私の愛用の蛍光ペンは「ジャストフィット モジニライン」です。

筆ペンのようにやわらかい筆先になっていてオシャレなのと(普通の蛍光ペンは固いですよね)、裏移りがしない蛍光ペンです。

(薄すぎるぺらっぺらの紙だと裏移りはするので注意です。大嶋先生の青山ライフ出版の分厚い本は、だいたいのペンが裏移りしていまいます)

 

しかし、なかなか売ってるところがないのが難点ですね。

 

 

 

お菓子好きなのは母親に禁止されていたから。

私は昔、お菓子を食べることを禁止されていました。

なぜなら、お菓子を食べると顔面にニキビが出来て酷い有様になるから。

 

どれぐらいひどいのかというと、顔中全面に大きな赤いニキビがデコボコとできて、治らないんです。

 

いろんな皮膚科へ行きました。

だけど、どんな塗り薬を出されても治らないし、道端では罵声を浴びせられるし、母親は「お菓子を食べるな!」ととても戒めてきます。

 

おかげで私は今でもお菓子を食べることに恐怖感があります。

 

で、お菓子を食べるとニキビが出来るか?なのですが、確かに糖分を取り過ぎると人よりもニキビができやすいのかもしれません。

 

だけどそれ以前に、小学校高学年ぐらいから顔面ニキビがひどくなり始めたのですが、その頃には本当にいろいろありました。

 

担任の教師が嫌いすぎて(ものすごい体育系のパワハラ。当時『GTO』が流行ってて、鬼塚を履き違えたような輩が担任だった)、毎日担任の〇を望んでいました。

 

だけど、担任は〇なないし、毎日の地獄は続くし。

 

そしてその頃に始めたであろうもう一つの地獄が「歯列矯正」でした。

 

これがまあ、ものすごく痛いんです。

もう四六時中痛くて、しかも寝る時に頭にネットをしてかなんかで、口にはマウスピースとか金具とか、もう本当に拷問ですよ!

 

そんなこんながあったから、さらに不眠症がひどくなって本気で「寝れない人」になったんだろうし、すぐにニキビができる体質になったのかもしれない。

 

心当たりがありすぎて逆に何が原因か特定できないんだけど、全てが原因だったのかもしれません。

 

私の母は、ものすごい美人です。

「〇〇小町」と言われて、友達の付き添いで受けたシャンプーのCMに受かってCMデビューもしたらしいんだけど、業界が合わなくてやめたとか。

 

このブログ記事で何回「ものすごい」って書いたのかそろそろ気になってきたのですが、無意識に任せます(笑)

 

私は、自分の顔がとてもコンプレックスです。

 

母親のように美人になりたいと思って願ってきたけど、そもそも一重だし、鼻は低いし、歯並びも悪い。

(高校生の時にアイプチを毎日してたら二重になりました(笑))

 

どこをどう取ってもブスの要素しかないと思って、それで毎日絶望していたんです。

 

顔はニキビだらけだし、遺伝で毛深いし、顔の造形も整っているわけじゃないし。

 

私は、別にお菓子好きなわけでもないんだけど、たまに食べると「美味しー!」とは思います。

 

だけど、食べたあとの何とも言えないあの罪悪感が強烈で、食べて「美味しかった!」と心底喜ぶことができないのです。

 

お菓子を食べた自分を罰するように、「あんなものを食べて子供だな!」と思ってしまいます。

 

確かにポテトチップスや甘い物を食べたくなる時は退行しているのかもしれない。

「自分を癒したい~」と赤ちゃんになって甘やかしてもらいたい気持ちが、「お菓子を今すぐ食べたい!」と居ても立ってもいられない気持ちにさせるのかもしれない。

 

じゃあ、なぜ私は「お菓子」に恐怖心があるのに、食べたくなってしまうのか?

どうして「お菓子」が退行している症状の一種になってしまうのか?

 

「心よ、私はお菓子が怖いのですか?」と聞いてみる。

すると心は「そうですね、お菓子というよりは母親が怖いんでしょうね」と言ってくる。

まさかの、母親(笑)そうだったんだ、とまず気づく。

 

「心よ、“お菓子”と思うと母親を思い出すから怖いんですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたが“お菓子”でイメージする母親というのはどこか“孤独”を連想させるものが多いのかもしれませんね」

 

私は変わった子だったので(と、自分では思う)、お菓子にあのチョコフレークなどをチョイスしていたんですね。

牛乳に浸して食べるやつ。

 

でも、私は当時バカだったから(勉強ができるバカだった)、自分で牛乳を浸して食べる、ということが出来なかったんですね。

 

母親は、私がチョコフレークを食べたがっていることを知っておきながら、無視してテレビを見続けていて、牛乳をかけれない私は自分で言い出せずに、牛乳をかけないままバリバリとチョコ以外のフレークも全部食べた苦い思い出があります。

(本当に美味しくなかった。味もそうだけど、気持ち的にも苦かった)

 

もう一つは、私は何かで母親と喧嘩した時に、「そんなお菓子いらない!」と突っぱねたことがあるんですね。

 

うちの母親は空気がマジで読めないというか、言葉をそのまま受け取る人なので、私が「いらない!」と言ったから、じゃあ他の家族で食べましょうか、と全部食べちゃったんです。

 

実は私もそのお菓子を食べるのを楽しみにしていたのに、喧嘩をしたことで素直に「食べたい」と言えずに、ガーン!となってしまいました。

 

本当は、もっと何か根深いトラウマがあるのかもしれない。

何しろ私は虫歯が昔から非常に多くて、それは母親曰く「おばあさんがあんたに口移しでお菓子を食べさせていたから」ということも聞かされています。

 

何が真実で何が真実ではなく、何が要因なのかも分かりませんが、多分これは「情緒的ネグレクト」の部類に入るのではないかと思っています。

 

誰かが聞いたら「なんだ、大したことないんじゃん!」っていう、トラウマと言えるほどのトラウマではない出来事の積み重ね。

 

私は、その昔お金がなくて満足にご飯を食べれない時期があったけれど、それは「お金がないから」お腹いっぱいに食べられないんだと思っていました。

 

その後、月収50万円になったとしても、私は相変わらず「飢餓感」で悩んでいました。

 

いつも家には最低限の食料しか置いてないから、お腹が空いて何か食べたいとなった時にスーパーに行かないといけない。

でも、スーパーに行く気力もないぐらい疲れている。

 

これは恐らく、「セルフネグレクト」をしている状態なのではないかと思っている。

 

お腹が空いている自分を放置して、丸一日過ごす生活。

 

朝起きて「お腹空いたなあ」と思うけれど、休日ならそのまま何も食べずに夜まで過ごす。

理由は「作るのが面倒くさいから」「買いに行くのが面倒くさいから」。

 

妹の話を聞いたりすると、みんな家にレトルト食品を置いていたりするんですね!

私はレトルトやコンビニ食が苦手て、全て手作りです。

冷凍食品なんかも苦手でしたね。

 

だから、一から作る!って思うとまた億劫になって、簡単にチャチャ!とできないからいいや…とどんどん空腹のままの自分を放置してしまう。

 

人間、やっぱり食べないとダメなんですよ。

だけど、今でこそ私は自分で「食べるのが好き!」と公言していますが、その昔は真っ先に食費を削っていましたね。

 

そう、削るとこは食費ではなかったんですね。

それは生きることに必要なのに、特に必要でない、たとえばカメラ代とか洋服代とか、それのために一食二食を我慢する。

 

マズローの5段階説の一番下の『ベーシックニーズ』が満たされていないわけなんですね。

 

だからか、いつもイライラしていて満たされない思い出いっぱいでした。

 

私は、自分が生きることに「食」は大事ではないと思っていたんですね。

 

その証拠に、今でも辛いことがあると、ご飯を食べながら涙が出てきます。

なぜでしょうね、ご飯を口に運ぶ時に何とも言えない「こんな私がご飯を食べていて申し訳ない」という気持ち。

 

私はご飯を食べながら泣く時に、いつも思い出すのは『ワニの涙』です。

 

ワニは本当は悲しくて泣いているわけではない。

ただ、そこに涙腺と繋がっているものがあるから泣いているように見えるだけで、ただの生理機能なのです。

 

だから、私も「食べると泣く」となる時に、「お菓子」と思うと肌が粟立つような感じになる時に、ただ単にそれは「生理機能」であって特に私の感情が動いたとかではなく、私の体が反応を示しているだけである。

そこに感情を付けるとおかしなことになるので、「ただ、涙が流れている」とする。

 

私はジェームズ・ランゲ説が大好きです。

 

私はきっと「泣くから、悲しい」のです。

 

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余談ですが、20代前半までニキビ肌で悩み、30代前半まで毛穴の開きや赤み、いちご鼻に悩んでいました。

 

そんな肌のトラブルがずっと治らなかった私ですが、36歳にしていろんな方から「肌がきれい!」と言われています。

 

私が普段使っているのは『箸方』の化粧水・乳液・洗顔・メイク落とし。

 

カメラ仲間の一人にとても肌がなめらかで白い女性がいて、その方が箸方を使っているということで私も使い始めました。

 

確かに、箸方を使っていると肌がとても白くなめらかになります。

 

そして、朝晩にスチーマー。

 

乾燥すると毛穴が開いたり赤くなります、

パナソニックのスチーマー、ナノケアを愛用しています。

 

温かい保スチームのモードと、温かいのと冷たいミストが交互に出てくるモード、そして温かいスチームの最後に冷たいミスト、という3つのモードを選べます。

 

私の体験では、温かいのと冷たいのが交互のモードが一番肌が白く毛穴レスになっていると感じています。

 

さらに私はパーソナルカラーの学校でメイクの授業も受けたので、肌をきれいに見せる方法も習いました!

 

だけど何と言っても一番は、「朝晩の洗顔で必ず30回は顔を洗うこと!」これが一番最強です。

 

肌をきれいに見せる化粧下地は、ラロッシュポゼの白いやつが一番良いと思っています。

肌が白く、そして毛穴レスに見せてくれるし、化粧ノリも良くなります。

 

 

カフェオレを零して落ち込むのは母親のため。

さっき「よっしゃブログ書こ!」と思った瞬間、飲んでいたカフェオレをこぼしました。

「あー!勿体ない!」と思うと同時に自分を責めるのは、母親が悲しむ顔を見たくないから。

 

母親のお金を使って、母親を「大事にする!」と思った時に「お金は大事に大事に使わないといけない。だから、無駄遣いをした私を罰しないといけない」そんなふうに自分のことを責めて罰するのです。

 

最近読んだ漫画の中に「人のことはダメ出ししてはいけないのに、自分にはダメ出ししていいの?」という問いかけが書かれてあり、「たしかに!」と思った記憶があります。

「自分へのダメ出しは虐待」だと、はっきり書かれていました。

 

そう、自分のことはめちゃくちゃ責めるのです。

「何でもっと早くやらなかったの!」「何でもっと人に優しくできないの!」「あなたは本当にダメな子ね」って、多分自分が一番自分を罰して「良い行いをする立派な自分に育てたい」んですね。

 

だから、あらゆる角度から自分を罰して「ほら!あなたはなんてダメな子なの」といちいち証明しようとしている。

 

それが、彼氏が出来たり身近な存在ができたときに、自分と同じように罰してしまうのは、自分を投影しているからなのでしょうか?

 

「心よ、私が彼氏や他人を罰してしまう時に何が起こっているのでしょうか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それは自己投影もありますが、もっと重要なのは、あなたが自分を罰している時に何を感じて相手を罰しているのか、ですね」と言ってきます。

 

私は、友達にはわりと「いいよいいよ~」と結構気にしないでいれるのですが、彼氏が友達と同じことをすると「何でお前はそうやねん!」と鬼のごとく怒ってしまいます。

 

友達には「分かるよ~私もそうやもん」と共感できるのに、なぜ彼氏には「何お前はできへんねん!」とキレてしまうのか。

(家族、特に母親に対してもそうですね。妹には友達の距離感なので、あまりキレることはありません)

 

「心よ、私の中で、友達と彼氏、母親と他の家族に違いはあるのですか?」と聞いてみます。

すると心は「あるとしたら、あなたが相手に対して自分を投影しやすいのは、あなたが相手を認めた時に“私を理解してくれるのはあなたのみ”という感覚を抱くかどうかです」と言ってきます。

 

「心よ、その感覚は何の違いで抱くのですか?」と聞くと、心は「あなたがもし誰かに愛想を尽かされた時に相手に対して抱く思いは、あなたの支配の感情と関係がある」と言ってきます。

 

「心よ、支配の感情とは何ですか?」と聞いてみると、心は「支配されている時にあなたが感じる罪悪感や負の感情というのは、相手から流れ込んできたものもあれば、自分を罰することで自己発電している節もある。だから、支配されている時にこそ“相手を責めるは自分”という感覚を認めた方が良い」と言ってきます。

 

「心よ、相手を責めるのは自分という感覚を認めると、どうなるのですか?」と聞くと、心は「そこにあなたの意志がどれぐらいあるのかどうかが大事なのかもしれません。相手を責めたくなるのは母親であり、あなた自身は何も感じていなかったとしても、怒ることで相手との関係を悪化させて、あなたの居心地が悪くなるようなことがあると、それは支配と考えても良いのかもしれません」

 

「心よ、この場合の支配の内容を教えて」と心に聞くと、心からはこんなイメージが返ってきました。

昔読んだ芥川龍之介の『地獄変』の牛車のイメージです。

 

「心よ、このイメージが表すのは、私が親のために自己犠牲をしているということですか?」と聞いてみます。

すると心は、「それはそうですね、しかしもっと重要なのは、あなたが親のために犠牲を払っていると思っていることこそ、親のための犠牲なのである」と言ってきます。

 

親は、私の人生を犠牲にして、自分のやりたいことや望みを叶えているのかもしれない。

だけど同時に、親の犠牲になる私を見て、親自身も自己犠牲で苦しんでいるのかもしれない。

 

大嶋先生の支配者理論ですと、支配者は何の感情も持っていない。

支配者は支配するのがお仕事なので、淡々と支配するのです。

 

だから私が「両親が苦しんでいる」と想像すればするほど、私自身が苦しむ結果になる。

だって、共感で打ち消すことが出来ないんだもの。

 

「心よ、私が母親の支配から逃れるために、今必要なことは何?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたが毎日楽しく過ごすことなんですけれど、もしあなたが今、母親に罪悪感を感じているのであれば、それは母親に対する申し訳なさというよりも、あなたが自分で自分の首を絞めていることに気づくべきである」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ罪悪感を感じることが自分で自分の首を絞めることに繋がるのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが罪悪感を感じるたびに、自分の生活を犠牲にして母親に尽くそうとしてしまうから」と。

 

要は、親孝行をしなければ!と焦れば焦るほど、残りの人生を親に捧げてしまい、親が死んだあとの自分は今の親の年齢であるとすれば、その頃にはもう何も自分の好きなことに取り組むエネルギーや活力が残っておらず『親のために人生を生きた』となってしまうからなのでしょう。

 

大嶋先生の『愛』の話に、「親子の愛は自己犠牲」というのがありました。

子供は、親の自己犠牲を自己犠牲で返す必要があるのか?

そこから何かが生まれるのか?

自己犠牲を自己犠牲で返している内に、家族との閉鎖的な環境から抜け出せなくなって、外の人間関係が築けないような気がしてきます。

「だって、親を無視して生活できないもの」と家族に献身的になればなるほど、外の世界との繋がりが薄くなる感じです。

 

昨日まで「母親のお金を使う」ということに対して、半端ない罪悪感がありました。

その罪悪感に対する呪文を、昨日の大嶋先生の呪文講座の要領で作ってみると『羊羹で縄跳び』というタイトルができました。

 

『羊羹で縄跳び』と「母親のお金」を統合するとできたスクリプトは、「羊羹は道具じゃなくて、食べるもの!美味しくいただきましょう!」でした(笑)

 

私は、母親からもらったものをやたらめったら大事に保管して捨てられません。

それで物が増えていっていたのですが、5年ほど前に一度実家に帰った時に、一気に小学生の頃の学習机を捨てました。

 

その時の父親がすごく機嫌が悪かったのですが、後から考えたら、学習机って高いし、しかも学習机を捨てる人って実はそんなにいないのではないか?ということです。

 

当時、本当に私の実家にある学習机が「邪魔やなあ」と思っていたのは、その机には本当に嫌な記憶しかないこと。

 

母親に冷たく怒られたこと、夜中まで宿題が終わらずに父親に怒鳴られたこと、抜毛症や眠れない悩み、妹との喧嘩…私は本当にそれを捨てたかったんだけど(物には記憶が宿る)、親にとってはそうではなかったのかもしれない。

「捨てたい思い出」と思っていたのは、私だけだったのかもしれない。

 

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芥川龍之介さんは、『鼻』が一番好きな話だったりしますが、今回ブログに出てきた『地獄変』を貼っておきます。

後味悪いかもしれませんが、真の芸術を追うとこうなるのかもしれないし、私にもそんな側面があるのかもしれないと考えさせられる物語です。

 

 

 

お母さんに謝らないと。

私の一番古い記憶の中で「母親に謝る記憶」というのがあります。

 

何が原因だったのかは分からないのですが、祖母に手を引かれて「お母さんに謝りに行こう」と玄関を出るのです。

 

玄関を出ると、近所のマルチーズを外で飼っているお家の前で、母親と妹が楽しそうに喋っています。

 

私は祖母に言われた通り「ごめんなさい」というけれど、母親は泣いているのか怒っているのか私には分かりません。

 

私は、祖母のことが好きでした。

 

だけど、次第に「私の味方をしてくれない祖母」に嫌悪感を抱くようにもなりました。

 

私はただ、自分の味方が欲しかっただけなのかもしれない。

 

もし今、あの頃に戻ったら、私は自分に何を言うだろうかと考えます。

 

私はきっと、あの頃の自分を見た時に「何か悪いところはなかったか?」「改善できる箇所はないか?」と探し出そうとするでしょう。

 

祖母は認知症になりました。

その前にリウマチになったり、鬱病になったり。

 

私は後を追いかけるように鬱病になり、ヘルニアになり、遺伝子の影響か分からないけれど、私もリウマチ因子が通常より高かったりします。

 

私は、家族が大嫌いでした。

 

そもそも会話がない家族だし、私は「いらない子」だとずっと思っていました。

 

私は外に居場所を探しに行ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 

母親から何度か手紙をもらったことがあります。

その手紙はすぐには読めず、10年後に読んだりしていました。

 

誰かに干渉されるのが怖かった。

なぜなら、そこに母親の影を見てしまうから。

 

私が裏切ったり泣かせてしまったりした母親は、もう私の味方ではなく他の誰かの元へ行って私を悪者にするのだと、本気で思っていました。

 

もしこの世にタイムマシンがあるのなら、私はまずこの世に生まれてこなかったことを選択するのかもしれない。

 

それぐらい世の中を憎んで、家族を恨んで、自分自身を責めて生きてきました。

「私は非難されて当然の存在」だと、自分で自分を戒めるのです。

 

ある日、私は母親と大喧嘩しました。

その時にはからずとも、「私と母親は似てるんだから!」と泣き叫びました。

 

私は当時、母親より父親に似ていると思っていましたし、母親も全く自覚はありませんでした。

だけど、ヒステリックに叫ぶところやすぐ泣くところは母親に似ていると思っていたのです。

 

私は、自分が家族の一員じゃないと思っていたけれど、その気持ちの裏側にあるのは「誰よりも家族の血を濃く受け継いでいる」ということだったのかもしれない。

 

「意識以外が無意識」だとして、私が考える「ドット」は「母親は私を嫌っている」。

 

だけど「ドット以外が無意識」だから、「母親が私を嫌っている以外は無意識が働いている」と考えると、ますます母親に似てきている自分が見えてきます。

 

私は、自分が母親に似ていることを認めたくなかった。

なぜなら「母親は妹のもの」と思っていたから。

 

どこに行くにも何をするにも、妹は母親を選び、私は「お父さんが良いよね」という暗黙の了解。

 

だいたい今日のブログは初っ端から書いててキツかったけど、あかん、普通に気持ち悪い思いが自分の中に広がっていきます。

 

確かに遺伝的に、私は長女なので父親の血を受け継いでいます。

 

私は自分では父親の呪いにかかっていると思っていた。

 

だけど、本当に認めたくなかったのは、私は「家族の誰とも似ていない」ということだったのかもしれない。

 

自分で書いていて混乱してきたので、心に聞いてみます。

 

「心よ、私が家族の誰とも似ていないってどういうこと?」と聞くと、心は「それはあなたが思っている以上に家族との血が濃いと、あなたの中で何か問題がない限りは、あなたの中で家族が生き続ける」と言ってきます。

 

「心よ、もう少し分かりやすく説明して」というと、心は「私はあなたが家族を恨んでいるようには見えません。なぜなら、あなたは自分の中で消化されつつあるから。家族の背後にある無意識の存在を信じて、家族はあなたが思うほど敵ではない」

(ものすごく文字を打つのに抵抗があるのは、何故なんだろう)

 

「心よ、家族を恨んでいる私とは何ですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが作り出した幻想です。心はあなたの望む方へと導くために、あなたの中に作り出されたその幻想を解く術を教えます」

 

「心よ、その幻想を解くと私はどうなるのですか?」と聞くと、心は「それはあなたが自由に羽ばたける足枷を外した時のように、あなたが誰かのしがらみから解放されたら、純粋無垢な自分自身の能力を信頼出来るでしょう」と言ってきます。

 

なんか心の声がしっくりと来ないんです。

「心よ、それはどうしてですか?」と聞くと、心は「あなたが信じたいものだけがこの世の全てではなくて、あなたが信じられないものがこの世の真理」とか言ってきます。

 

なんか心にディスられてる気分です(笑)

支配に邪魔されてるのかなあ?とも思うのですが、心は「そんなことはない。あなたは支配から解放された時に一番やりたいことをやりなさい」と言ってくる。

 

「心よ、私がやりたいことって何?」と聞いてみると、心は「それはあなたが母親に嫉妬されること」と言ってくるのです。