無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

無意識に導かれて

無意識に導かれて、どこまで行くのか。どこに行くのか。

 

心は、私にたくさんの風景を見せてくれます。

 

だけど、どこまで行っても私は何者にもなれないし、誰にとっての特別にもなれない感覚があった。

 

だからか、私はいつも誰か他の人を目指しては、ここではない感覚を感じていた。

 

そう、私は誰か他の人になりたくて、でも自分以外の誰にもなれなくて。

 

そんなことを心に聞くと「ねえ、心よ、どうして私は誰か他の人になりたいの?」

心は「そんなことは分かり切っている。なぜなら、あなたは自分自身を認めていないから」と言われるのです。

 

「心よ、じゃあ私は何を自分自身に認めていないの?」と聞くと、「本当の自分を隠して生きている」と言われるのです。

 

「心よ、本当の自分って?」と問いかけると、「あなたは母親を私に投影しているけれど、本当の母親はあなたのことを認めていない。なぜなら、あなたのことを認めてしまうと、あなたが遠くに行ってしまって二度と帰ってこないような気がしているから」「だから、それが支配なんです」と答ます。

 

「心よ、じゃあ、その支配を断ち切れってこと?」と聞くと心は「いえ、そうではなくて、あなたが自分自身の望むところに行くには、まだまだ努力が足りないと思っているけれど、それは母親の感覚であって、あなたの感覚は“もう十分やれている”なのです」と返ってきます。

 

「心よ、なぜ母親の感覚だと、“まだまだ努力が足りない”と思ってしまうのですか?」と問いかけると、心は「では、あなたは何が足りないと思っていますか?」と問いかけ直してきます。

 

私は少し、考えました。

たとえばお金とか、自立心とか、コミュニケーション能力とか…でも、そんなものはほとんどトラウマから成り立っていて(私の場合は)、母親がいなくなったからと言って自立心が育つわけでもないし、今もまだ母親が心の中で私に助けを求めているような気がするんです。

 

そうなると、私はどんどんどんどん母親に罪悪感を感じていって、その申し訳なさを手放せずにいると、母親の枠組みから離れられない自分を感じるのです。

 

その枠組みというのはスクリプトで言うと、「母親」と書いた土俵の中が世界の全てであり、その土俵から一歩でも出れば「アウト~!」となってしまうような感覚なのです。

 

そう、私はその土俵の中でひとり相撲をしていて、ひとり相撲の相手はいないから延々と見えない相手を目の前に一人で踏ん張っているのです。

 

その見えない相手というのは自分自身かもしれないし他の誰かかもしれないし、傍から見るととても滑稽なんだと思います。

 

いつも何かと戦っていて、その戦いをやめてしまうと自分が負けを認めたような感覚になってしまうので、戦い続けなければならない。

 

たとえば勝ったので戦いをやめたかったとしても、戦いをやめて引退することになると、途端に自分の居場所が分からなくなる。

 

それはなぜかというと、自分の居場所というのは戦いの場であり、この土俵の上なので、戦わない自分に価値がないと思ってしまうのです。

 

本当は凪を求めているのに、凪を感じている自分はみっともない。

 

「心よ、なぜ凪を感じている自分がみっともないの?」

「それはあなたが自分に凪を許していないから。あなたが自分に凪を許した時に、あなたは自分の心に広がる広大な世界を眺めて、そして大きく深呼吸をするのです。その深呼吸は大地を潤し、またあなた自身の糧になっていくでしょう」

 

「心よ、私自身の何の糧になるの?」

「それはあなたが自分自身を許した時に感じる凪のように広がっていく、大きな大きな世界が目の前に広がっていったとき、あなたはそれを受け取る準備ができたと、私はあなたに教えます」

 

そんな心の声が聞こえて、そうして私はまた変わらぬ日常に帰っていくのです。