飾らない自分になるために
飾らない自分に何が出来るのかと考えた時、ひとつの答にたどり着きます。
それは私が「人の目を気にしない」ことです。
誰のために着飾るのかというと、恐らくそれは自分のためではないのでしょうね。
私は「彼氏が優しい」と思っていました。
だけど、ある方に催眠をかけてもらう時に「たとえば、彼のどんなところが優しいのか具体的に教えてください」と仰った。
その時に私が思ったのは「私はその当時に“彼はなんて優しい人なんだ!”」と感動したけど、彼の優しさを並べてみた時に、それは間違いだったことに気づいたのです。
たとえば、私は彼のどんなところに優しさを感じていたのかというと
・奈良まで会いに来てくれること
・毎日LINEや電話をくれること
・好きだとちゃんと気持ちを伝えてくれること
・会いたいと言ってくれること…
などがあるのですが、私はそれを言葉に出して催眠をかけてくださる相手に伝える瞬間「何かおかしい」と思ったのです。
本当にこれは「優しさ」なのか?と。
では、どんなことだったら「本当の優しさ」と思えるのだろうか。
多分それは「私が望んでることをしてくれたら“優しい”」で「私が望まないことをされたら“優しくない”」になるのだと思う。
私は、自分の子供っぽさを恥じた。
彼はただ「自分がやりたいことをやっているだけ」で、たまたまそれが私にもフィットしただけなのだ。
だから、もしこの先お互いの「やりたいこと」が合致しなくなったら、その先はなくなるのではないのだろうか。
だったら「相手に合わせる」ということを、私は一切していないのだから。
私は彼氏を「邪魔者扱い」していた。
「私の邪魔をするなら」と思っていたけれど、じゃあ何でそれが「邪魔」だと思っていましまっていたのか。
それは一つは「一体感を持てない」ことに原因があるのかもしれない。
人と関係を構築していく過程でどうしても嫌悪感が増してしまい、相手に嫌がらせのような感覚を抱いてしまう。
「あなたは私に必要がない」と。
だけどもう一つの仮定として、それは私が「相手を尊重できないのは、私の脳の問題である」ということだ。
これはどういうことなのかというと、たとえば私が彼に対して「邪魔」だと思うとする。
その時に脳内で大量の電流が流れてサージが起こっている。
そのサージが起こっている時に彼に何か言われると、私は途端にブチ切れる。
なぜなら、人の影響を受けたままの脳で彼と会話をすると「自分じゃないものがそこに混じる」から。
「自分じゃないもの」というのは、たとえば母親とか私に不快感を与えてくる人とか、まあ大きな影響を与える存在が他にいるとすると、私は私らしく彼に振る舞えない。
本当は彼の態度をうれしく思っていたとしても「はあ?」みたいな態度になってしまうのは、そこに「誰かの影響」が隠れているから。
じゃあ、その「誰かの影響」を排除するために何が出来るのかというと、「私は私自身を思い出す」ということです。
どうやって「私自身を思い出す」のかというと、ここで登場するのが「心に聞く」です。
「心よ、私は本当にそれを望んでやっているの?」と。
なぜ心に聞く必要があるのかというと、私はやっぱり一番の理由は「幸せに過ごしたいから」ですね。
「心に聞く」と必ず幸せに過ごせるのかというと断言はできませんが、でも大きなリスクは回避できると思います。
なぜ人生に大きなリスクが生まれるのかというと、それはやっぱりホルモンの乱高下から作られる悪夢なのかもしれませんね。
ホルモンが乱高下しているからこそ、地獄がとても魅力的に見えたり、危険な人が白馬に乗った王子様に見えたり…そんなジェットコースターのような人生を楽しんでいるように見えて、実はそこには苦しさと快感が同居しているのでしょう。
私はずっと、この苦しさを快感だと思っていて、それを手放せずにいました。
だから、朝起きられないし、素敵な人と素敵な交友関係をずっと続けることが出来なかった。
ホルモンの乱高下が見せる悪夢は、私にとったら麻薬同然のもので、そこから抜け出すために起こる禁断症状は耐えがたいものでした。
だけど、一度そこから抜けてみて見る世界は、まるで違って見えるのです。
そして、ちゃんと「不快なものは不快」と感じられるようになったのです。