無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

水浴びする蛙

水浴びをする蛙と聞いて真っ先に思ったのは、「蛙って水浴びするの?」でした。

 

確かに蛙は“濡れている”イメージで、乾くと良くないのかなと思います。

(河童のお皿が乾いたらヒビ割れるように)

 

しかし蛙といえば、家の近所ではひっきりなしに鳴いていて、まるで夏の風物詩がずっと続いているかのように、真冬でもときたま蛙の声が聞こえる時があります。

 

蛙というと、私にとっては“苦手”の分類に入ります。

爬虫類全般は苦手ですね。

なぜなら、なんだかぬめぬめしていて「気持ち悪い!」と思ってしまうから。

 

なぜぬめぬめしているのが気持ち悪いと思うのか、いつから蛙が苦手なのか。

そんなの「気づいたら苦手」だったのですが、何か苦手になる理由があるのではないかと思っています。

なぜなら「蛙が得意」「蛙が好き」という人が世の中にいるからです。

 

その証拠に、うちの母親は青虫が好きです。

(また青虫の話か!)

なぜ好きなのかは知りませんが「かわいい」と言って育てていたことがあります。

私が大嫌いなアゲハ蝶の幼虫など(アゲハ蝶には申し訳ないけれど)、「好き」だと言っています。

(たぶんアゲハの柄が好きなんだと思います。私にはどうしても無理ですが)

 

このように「好き嫌い」が分かれるには、何か理由があるのではないかと思っているのです。

それは遺伝の問題かもしれないし、生まれた環境かもしれないし、何が原因か分からないけれど、「どうしても無理!」の向こう側には何かそれなりの理由があるのではないかと思っています。

 

私は、長年この「幼虫が苦手」でなぜか苦しんできました。

なぜなら、血や切り傷が無理で医療関係の仕事を目指せなかったのと同じく、「幼虫が無理!」だから農業の方の道を選べなかったこと。

 

「心よ、私が爬虫類や青虫が苦手な背景には、支配が絡んでいますか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それは支配ではなく遺伝の問題ですね」と言ってきます。

ちなみに「父親」だと心は言います。

 

確かに母親と違って、父親は青虫系が大の苦手で、私だって苦手で触りたくないのに、父が運転する車に青虫が表れた時に私は素手で車外に青虫を捨てた記憶があります。

(今、思い出しても「ひえ~!」です)

 

「心よ、遺伝の何が問題で、私は爬虫類や青虫が苦手なんですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、あなたは父親に支配されていた時に“何が苦手で何が得意”と入れられたとしたら、それは母親と正反対のものが入っている」と言ってきます。

 

つまり、私は家系的に“長女”なので、遺伝的な支配があるとしたら母親の遺伝子ではなく「父親の遺伝子の影響」と言いたいのでしょう。

 

「心よ、ではなぜ、それが“母親と正反対”となるのでしょうか?」と聞いてみると、心は「そうですね、遺伝の支配があったとしたら、あなたは知らない内にDNAの情報で“好き嫌い”が分かれます。だけどもし遺伝情報がないと“好き嫌い”がないと言ったらそうではありません。なぜなら環境要因があるから」と言ってくるのです。

 

「心よ、私の環境要因とは何ですか?」と聞いてみると、心は「そうですね、それはあなたが“母親と違う道”で生きることで、母親の支配を如実に物語ること」と言ってきます。

 

「心よ、私が如実に物語っている“母親”の支配とはどんなもの?それは私の母親?それとも父親の母親?」と聞いてみます。

すると心は「そうですね、あなたの母親のことを指します。なぜならあなたの母親の支配というのは、父親を使って間接的に支配し、そしてあなたを奈落の底に突き落とすこと」と言ってきます。

 

「心よ、私はどんなふうに奈落の底に突き落とされているの?」と聞いてみると、心は「そうですね、今のサロンのオーナーと上手くいかないのは“母親の好き嫌い”であって、あなたの好みが反映されたわけじゃない」

ここで、私のここ数日の悩み“オーナーと上手くいかずに、集団いじめのようになっている”という問題が浮上してきます。

 

「心よ、この友人(オーナー)と青虫はどのように関係あるの?」と聞いてみると、心は「そうですね、もしあなたが“青虫が嫌い”ならば、それは誰の影響かを考えてみる。もし今“サロンを辞めたい”と思っているのなら、“あなたに今必要なこと”は何なのかを考えてみる」

 

「心よ、ではもしこの水浴びする蛙の皮膚が乾いてしまったらどうなるのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが想像しているよりもっと過酷で、蛙には蛙の苦しみがある。だから誰かが“何かを好き”で“何かを嫌い”と言った時に、あなたは相手の苦しみに注目するのではなくて、あなたが心の奥底で思っている“好き嫌い”とは誰の影響かを考えてみること」と言ってきます。

 

ちなみに蛙の皮膚が乾くとどうなるのか、はっきりと分かりません。

私の無意識も、もしかしたら「分からない」ということを教えてくれているのかもしれませんね。

 

人を支配する特性

ここで触れる「支配」という言葉は、大嶋信頼先生の仰る「支配」とはちょっと毛色が違う支配の話です。

 

私はとあるサロンを友人と運営していて、元々独立する前からこの友人との仲は険悪です。

どれぐらい険悪なのかと言うと、一度絶好したぐらい。

 

口を開けば喧嘩で、相手はいつも私の精神を逆撫でしてくることを言ってきます。

 

こんなにも人にイライラするのは初めてて、どうして他の人のように普通に話せないんだろうと不思議に思います。

 

それは今までの元カレとの関係のように、「男女の仲」(この場合は恋愛関係でなかったとしても)にトラウマがあるのか、知能の差なのか。

 

私は男の人と上手く会話が成り立ちません。

もちろん、仕事では別です。

 

だけどプライベートになると、最初は話が盛り上がっていても、なぜかどんどんどんどん険悪な仲になっていきます。

 

これは恋愛関係で主に発揮されて、初めは相手から恐らく「理想の女性!」と感動されやすいんです。

それで、いきなりプロポーズされたり一緒に住むことになったり…。

 

だけど時が過ぎていくと、やがて私の「恐妻ぶり」が発揮されていきます。

これが男性からしたらめちゃくちゃ怖いらしいんです。

 

ちなみに妹も恋愛はこんな感じで、最近も彼氏に逃げられています(笑)

 

そう、私たち姉妹は恋愛が上手くいかず、そして私の家系は離婚率が父方母方ともに高い。

 

うちの家ぐらいです。結婚生活がちゃんと続いている夫婦は。

あとは離婚したか独身か。

 

FAPカウンセリングで最初にジェノを取ってもらった時、うちの家系の病歴の多さと離婚・独身率に驚かれます。

他の方のジェノグラムがどんな感じで取られているのか分かりませんが、あまりにも家族の病歴と結婚歴で時間を取られたため初回だけで終わらず、その次の半分ぐらいまでジェノグラムを取ってもらっていました。

 

私は、客観的なデータを集めた家系図でいうと、どこか蝕まれているようなそんな家系のように感じます。

だけど、この話とじゃあどうしてうちのサロンのオーナーと上手くいかないのかが関係あるのかが分かりません。

ジェノグラムの話が出てくるからには、何か関係があるのでしょうが。

 

心に「心よ、どうして私はあの人と上手く喋れないの?」と問うと、心は「そうですね、あなたはあの人と喋りたいですか?」という答と「知能の問題」と言ってきます。

 

私は、この友人(オーナーですが一応友人です。多重関係ですね)のことを心に聞く時、いつも心に「あなたはこの人と喋りたくない。無視すべき」と言われ続けています。

 

そういえば、インサイトのカウンセリングでも何度かカウンセラーさんに相談して、カウンセラーさんも「ちょっと、有り得ない…」みたいな苦い顔を毎回されます(笑)

 

そんな人なのに(本当にまわりからの評判最悪な人なんです)、前の元カレは最初こそ私の味方をしてくれていたけど、途中からてのひらをひっくり返したように「お前が悪い」と私のことを責めてきます。

 

そうして、もう一人一緒に働いている人もいるのですが、その人は上手く立ち回っていて友人に好かれており、いつも私が悪者になって、私がしていないことまででっち上げられていたと今日知って絶望しています。

(ちなみに心は、このもう1人の人のことを「支配者」と言います)

 

そう、「絶望」とは「支配」なのですね。

 

なんだ、結局、大嶋理論の「支配」の話か…と安心する一方で、じゃあ何が解決したかというと何にも解決した気にならないのです。

 

ただ「私がどうしたいのか?」と問われた時、私はこれが誰かに「パワハラだ」と言われたいのかもしれない。

 

要領を得ない話し方になっていますが、私は人格否定と罵声を浴びせられ続け、相手に「お前のせいで俺の人生がめちゃくちゃに運が下がる」みたいなことを言われ。

 

私も悪いのかもしれない。

私のメンタルが不安定だからとか、そんなことを考えるけど、それにしたって「死ね」とか「無能」とか「稼げ」とか言われなくても、それは私が「お前に思っていること」だとも思うわけなんです。

 

どうして私が…私ばかりが…と思った時に、私は半年我慢して言わなかった「もう1人の人が掃除をしない問題」を思い出します。

 

サロンは私とその人が交互に使っており、毎朝私が玄関を開けるとまずスリッパが飛び散ってる。

(私はいつも揃えて帰る)

 

絨毯の毛は見えないと思っているのかコロコロをしていない。

白いテーブルクロスは汚い。

シンクやテーブルに食べかす。

トイレ掃除はトイレットペーパーを折ってるだけ。

(掃除してない)

 

それがもう辛くなって、友人に言ったわけなんです。

きっかけは、しょっちゅうクーラーを切り忘れてるから。

 

別に私がお金を出しているわけではないけど、なんで人の尻拭いをしてるんだろうと思って。

 

そうすると、あろうことかそのもう1人の人は、私が「よく掃除や物を置きっぱにして帰っていて、疲れてるんやな~」って言ってるらしい。

 

いや、いや、いや。

この強迫的で何度も何度も何度も帰る前に床に落ちている髪の毛をチェックしてからサロンを出ている私が、掃除をしていないとな?

 

と、そこで何かがプツッと切れて、今、友人のLINEを既読スルーしている。

 

ああ、私がSNS更新がんばってSEO対策してHPの検索順位上げても、お客様のクレームを受けるのは私だけで、お客様を取られて、そして私は貧乏になっていく。

 

このマタイの法則の「搾取される側」から何とか抜け出そうと、半年努力してきたけど、何がいけなかったんだろう。

 

心に聞いてみます。

(盛大な2000文字の愚痴でした)

 

「心よ、私は何か間違ったことをしていますか?」

心は「そうですね、あなたはもし自分が“間違ったことをしている”と思っているのなら、それは誰の基準で物事を考えているのかをまず考えてみるべきですね」と言ってきます。

 

「心よ、私は今、どうすると良いでしょうか?」と問い合わせてみると、心は「そうですね、あなたの心のおもむくままに。もし連絡をしたくなければそれでいいかと思います」

 

心にそう言われて、私の体が急にスッと軽くなった感じがあります。

 

「心よ、私はどうしたら良いのでしょうか?もうサロンを捨てるべきでしょうか?」

そうすると心は「そうですね、あなたが一番やりたいことはカウンセラーになることでしょう?それにもう足を突っ込んでいる今、本当にサロンが必要かどうか考えてみてください」

 

「心よ、私はこの家を引っ越すべきですか?」とそう聞いてみると(引っ越して実家に帰ると無駄なことをグダグダ考えず、サロンのことだけに集中できるので)、心は「そうですね、それがあなたのやりたいことから私は何も言いません」と突き放してきます。

 

だから私は「心よ、私がカウンセラーになるには何が後は必要ですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが私とともに過ごす覚悟があるかどうかだと思います」

 

「心よ、だからあなたは、最近サロンで私にミスや嫌な思いばかりさせるの?」と聞くと、「そうですね、それもあるかもしれませんが、もっと面白いのは、あなたの無意識はもう“サロンを求めていない”ということですね。」


「心よ、ちなみにこのサロンで私は2:6:2の法則とかマタイの法則に巻き込まれていますか?」と聞いてみると、心は「そうではありません、ただのあなたに対する嫉妬で足を引っ張られています」と言ってきます。

 

「心よ、誰の嫉妬ですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが思う友人とあの人(もう一人の人)ですね」

「心よ、なぜ嫉妬されているのですか?」と聞くと、心は「あなたは自分の能力を隠しているでしょう?」と問うてきます。

 

心に「心よ、何の能力のことですか?」と聞くと、心は「そうですね、あなたは人に対していつも優しく笑顔でいれる能力があります。それが嫉妬の発作を受けた時に母親の面影をなぞるように、あなたは孤独の発作を起こして相手を破壊する」

 

「心よ、母親の面影をなぞるようにとは、どのようなことを指す?」と聞くと、心は「それはあなたが母親と話している時に母親が孤独の発作や嫉妬の発作を起こしたとします。するとあなたはたちまち鬼のような形相になった母親を思い出すことになるでしょう。そうなった時に、あなたは私が昨日言っていた“相手にへりくだる行為”をしてしまうはずです」

 

あ~ここに繋がるのか~!と思いつつ、また長くなったので、答は私の中ではまだ出ていませんが、ここで終わります。

 

時の神クロノス

これは私が昨日相談したお悩みで出てきた「破壊欲動の神」ですね。

えらい壮大なものが出てきた~と、メタファーを出してくださった方が仰って教えてくださった。

 

そこから私は、なんだか謎に「今までギリギリ滑り込みセーフ!」だった人生なのに、「お、なんか余裕で間に合うやん。ちょっと優雅にお茶でもしよか」みたいな人生に一瞬で変わりました。

 

もちろんこれは普段は聞けない神様で、私はいつも「物語」だけを聞いて悩みから自由になっていきます。

 

そう、今回読んでくださった物語は、私が朝玄関を出て「今日は良い天気やな~」と感じる間もなく自転車をかっ飛ばして出勤していたことを思い出させてくださいました。

 

いやあ、本当に不思議で、私が悩みを話して、そして逐語で繰り返してくださって、そしてメタファーの種を出すだけで、時間に間に合わなかった少女が「なんか時間に間に合ってますけど?」みたいな状態に自然となっていること。

 

ちなみに今日はいつにも増してハードな朝で、私は毎朝読書を30分~1時間ほどしてから風呂に入りスチームをして、朝ごはんを作って食べて、化粧を30分~40分ほどしてロボット掃除機を起動させてから家を出ます。

そして今日はその後、まずは自転車の定期更新に行ってから、今度旅行に行くのでそのためにPCR検査を受けに行って…そして私の意識的なスケジュールでは「絶対に間に合わないから、特急券買っていつもより500円高くなるけど仕方ない…」と最悪なスケジュールを想定していました。

 

今日は朝一でご予約が入っていたので、何としてでも遅れるわけにはいかない。

だけど自転車の定期更新もPCR検査も、今日しか行けない。

「うわ~、なんでいつも私はこうなんだろう。もっと早くに何とか出来なかったの?」と予定パツパツの自分にイライラします。

 

だけど、今日は不思議と「あれ?なんか時間に間に合ってる。それどころか20分前行動できている」と、特に何かをがんばったわけではないのに自然と時間に余裕ができているのです。

 

なんてこった!

小学校の頃から時間に間に合わなくて、常に人を待たせては1時間も2時間も遅刻して、最近はそれもマシになったけど常に時間に余裕がないから、タイムアタックをしているような感じで常に臨戦態勢でした。

「〇〇は何分掛かるから…」と逆算しているようで、全く計算が合っていなかったんですね。

 

もう一つの問題として、余裕のある時間に起きているのになぜか間に合わない。

だらだらしている時もあれば、だらだらしていないのに「何で間に合わへんねん!」という時も多々あります。

 

私の意識的な解釈では、脳梁の問題があって算数障害だから優先順位をつけられないとか、大事なことを後回しにしてしまうとか、そもそも体が疲れすぎているから動けないとか、たくさん考えました。

そして、遺伝子コードではTCF20とかCACNA1Aとか脳梁系をたくさん唱えていましたが、一向に良くならない。

むしろ悪化している。

 

そんな時に「時の神クロノス」が出てきて、「ひえ~!私はなんちゅう神になっとったんじゃ!」と思ったわけなんです。

 

この後のセッションでまた別の方に「自分の破壊欲動を相手の中に見る」ことを教えていただいたので、もしかしたらこれを読んで「私も!」と思った方は私たちと同じく時の神クロノスを心の中に飼っているのかもしれませんね(笑)

 

それで私は、自分なりに「何で今まで時間に間に合わなかったんだろう」と真剣に真面目に向き合うことにしてみました。

 

ちなみにここに来るまでに遺伝子コード以外にも、「間に合う間に合う間に合う間に合う…」とひたすら心の中で唱えていると、信号が都合良く変わってくれる呪文なども使っていました。

(確か大嶋先生の呪文の本に、言い切る形で連続で唱えることと書いてあったからだと思います)

 

では、心に聞いてみましょう。

 

「心よ、どうして私は今まで時間に間に合わなかったのに、急にスクリプトを読んでもらってから時間に間に合うようになったのでしょうか?」

すると心は「そうですね、それはあなたの破壊欲動が関係しているのならば、あなたは時の神クロノスになって人類を支配し、自分の都合良く動かしたいと思っていたのでしょう」

 

そこで「あー--!!」となります。

私のここ最近のもう一つの悩みに、「人に時間を使うのが勿体ない」というのがありました。

だから彼氏とのデートも楽しみなはずなのに、「デートしている時間に仕事が出来るのに!」と過剰にイライラしていたんですね。

 

私は、彼氏が「利己主義」であったり「効率主義」であると思っていました。

だけど本当は自分の中にもそういうものがあって、「私は大事なことをしているんだから、一分一秒たりとも私の時間をあなたに譲れない!」みたいなけちん坊になっていたのでしょう。

 

ちなみに、その方が出してくださった神様の意とは違うかもしれませんが、個人的にめちゃくちゃ腑に落ちて憑物も落ちた感じなので、一緒に聞いてみちゃいます。

 

「心よ、私は時の神は時間を節約して効率主義で動かすことだと思っていたけれど、これは人の時間を搾取してまで自分に時間を与えることで、自分は人を支配しているというそういう感覚ですか?」と聞くと、心は「そうですね、あなたがなぜ時間通り動けなったのかというと、そういう支配もあったかもしれませんね。自分が動かないことによって他人の時間を支配し、そして罪悪感を入れて罰してしまう。だからあなたは自分が時間通り動けるようになると都合が悪かったのです」

 

「心よ、何の都合が悪かったのでしょうか?」

心は「それはあなたが時間通りに動けるようになることで一番困るのは母親です。」

 

私はここで、母親が昔ものすごい遅刻癖があって、毎朝学校までの道のりを全力ダッシュしていたら、病弱で入院を何度も繰り返していたはずなのに50mを6秒台で走れていたとかそんなエピソードを思い出します。

自分の遅刻癖は母からの遺伝だと思っている節もありました。

(うわ、やばい。めちゃくちゃ右手の小指が痛いし曲がります。激怒の反応です)

 

そこで心に一応確認してみます。

「心よ、私の遅刻癖は母親の遅刻癖と関係ありますか?」と心に聞くと、心は「そうですね、関係ありません。関係あるとしたら、父親と母親の関係が冷え切っていたあの頃、あなたは“できない子供”になることで二人の関係を保っていたのではないでしょうか」

 

そこで思い出したのが、私は「宿題が終わらない子」でした。

特に小5・6年のころ、担任が大っ嫌いだったのもあってか、家に帰ってから勉強机に座るのも宿題をせず、ひたすら宿題をするふりをしていて夜中の0時まで起きていました。

 

もちろん親は怒ります。

怒られるのが怖いから、0時になっても手をつけていない宿題を「終わったふり」をして、お風呂に入ります。父親と。

そしてその後、みんなが寝静まった午前4時とか5時にこっそり起きて、作文とか日記の宿題をこっそり終わらせるのです。

 

地獄のような日々でした。

今思えば、なぜあの時に私の異常行動を異常と捉えてくれずに、話を聞いてくれずに「早く宿題終わらせなさい!」と引っ叩かれていたんだろう、と。

ちゃんと「どうして宿題が終わらないのか」を聞いてくれたら良かったのではないかと。

 

この頃の私は宿題をせずに勉強机で何をしていたかというと、現代でいう「スマホYouTubeを見る」と同じような回避行動をしていました。

そして、床にはびっしり、抜いた髪が落ちていて、母親は毎朝その惨状を見て怒り狂うのです。

 

高校生になって知ったのですが、抜毛症というのは珍しい症状ではないんですね。

高校の時の私の友達も言ってました。

「分かる~!髪の毛抜いたら短い髪の毛がピョンピョン跳ねちゃって~」って。

 

抜毛症を治すのにも自力ですごくがんばって、私は元々髪の毛だけではなく、まつ毛も小1の頃から抜いていたんですね。

 

で、話が壮大になり過ぎているのですが、結局「時の神」(髪って変換されて、もしかして“かみ”繋がりではないですよね…笑)って、何を象徴していたのか。

あくまで「スクリプト」なので、あまり意識的な解釈は挟まない方が美しいのかもしれませんが、ちょっと興味があります。

 

「心よ、時の神は私にとっての何?」と聞いてみると、心は「時の神というのはあなたにとっての理想の人生を生きる支配の権化」と言ってきます。

 

「心よ、私にとっても理想の人生とは?」と心に聞いてみると、心は「それはあなたが時を支配することによって得られる快感というのがあって、それが“タイムアタック”であり、“間に合った~!”という安堵感が支配に繋がっている」と言います。

 

つまり、“本当に心地良いこと”は「時間に間に合うように用意して、ゆっくり焦らず準備すること」なのに、「安堵感を得るために時間に間に合わない」とそういうことが起きていた可能性があります。

 

これはあくまでも一つのストーリーなので、また別の側面から見てみると、別の物語創り出されるのかもしれませんね。

人形の館

私は最近、運が悪いです。

 

私は運が良いことだけが取り柄だったので、なぜこんな運が悪いんだろう?と不思議に思っています。

 

たとえば、お客様を怒らせるようなことをしてしまったり、間に合う時間に出ても電車が遅延したりなぜか乗らなかったりと、自分でも訳がわかりません。

 

だから、ちょっと心に聞いてみます。

 

「心よ、どうして私は最近運が悪いの?」

そうすると心は「そうだね、それは誰か人の影響だね」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ人の影響で私の運が悪くなるの?」と聞いてみます。

すると心は「それはあなたが足を引っ張られているから」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ足を引っ張られているの?」と聞くと、心は「あなたが誰かを思う時、あなたは少なからず足を引っ張られている。なぜならそれは相手の意思ではなく、あなたに対する嫉妬心や反抗心からである」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ嫉妬をされると運が悪くなるの?」と聞くと、「それはあなたが成功の道へ行かないように阻止されているから」と言われます。

 

「心よ、私はもう取り返しがつかないところまできたのでしょうか?」と心に聞いてみると、心は「そうですね、今ならまだ何とかなります。なぜならあなたはあなた自身の純粋な信念や影響力を忘れていないから」と言われます。

 

心は、私の運が悪いのが「嫉妬の影響」だと言ってきますが、嫉妬されたぐらいでこんなにも悪影響を及ぼされたらたまったもんじゃありません。

 

「心よ、対処方法はありますか?」と心に聞いてみると、心は「そうですね、もし対処方法があるとすれば、あなたが“気にしない”ことは勿論のこと、相手にとってへりくだらない。そして相手が“嫉妬する自分”でいること」と教えてくれます。

 

なるほどーと思うと同時に「心よ、この場合の“嫉妬される自分”とはどんな自分になれば良い?」と一応聞いてみます。

 

すると心は「そうだね…私が思うに、あなたは嫉妬された時、大抵相手にへりくだって相手にチャンスを譲っている感じがします。なので、相手が入る隙もないぐらいあなたが輝けば良いのだと思います」という抽象的な感じで返ってきます。

 

「心よ、輝き方を教えて」と問うと、心は「そうだねー…、もしあなたが輝きたいなら、“明日の自分”を考えずに“今日の自分”のことを考えて動きなさい。そうすれば自ずと嫉妬の発作から抜け出て、あなたが生きたいストーリーを生きれるようになるかもしれません」と言ってきます。

 

「心よ、“今日の自分”のことを考えるというのは、たとえばどういうふうに?」と聞くと、「そうですね、“今日の自分”というのは、あなたが“したい未来”に繋がる未来の自分への可能性です。なので、たとえば今このブログを書きながらあなたが頭の中で“これをしたい、あれをしたい”と考えたことは、なるべく今日中にやってみてください」と答えてきて、「なるほどー!」と納得しました。

 

そっか。

明日の自分のことを考えないのではなく、「明日にやろう」と先延ばしにしないことかー!と気づきます。

 

だから、もしかしたら「明日にやろう」と先延ばしにしている時は、誰かに“嫉妬”されているのかもしれませんね。

 

そうやって心に聞いて新たな発見があると、私はすぐに行動に移せるかというと、そういうわけではありません(笑)

 

だから逐一心に聞いて確認してみます。

 

「心よ、私は今、誰に嫉妬をされているの?」

そうすると心は「それはあなたが今思い浮かべた人の中で、1番“縁遠い人”」と答えてきます。

 

「心よ、それは私のことをよく知らないから嫉妬しちゃうということ?」と聞くと、心は「そうだね、だから気をつけないといけない。あなたは“人が優しい”と思いがちだから」と言ってきます。

 

「心よ、じゃあ人がみんな怖いものと思うべき?」と聞くと、心は「そういうわけではない。なぜなら人を信頼することと人を裏切ることは表裏一体だから」と言ってきます。

 

「心よ、どうして表裏一体なの?」と聞くと、心は「それはあなたが薄々気づいているように、人は必ずしも人のことを考えて動いているわけではありません。だから、あなたはちゃんとあなたのことだけを考えて動かないと、あなたが損する自体に陥った時に、あなたが逃げ出す手段を見失ってしまうから」と言います。

 

「心よ、それで今日のタイトルは何なの?」と聞いてみます。

すると心は「それはあなたが誰かの人形になった時、あなたは自分を見失わない手段を持っていますか?」と問いかけてきます。

 

私は“人形の館”と聞くと、真っ先に思い出すのは小学校の修学旅行で行った原爆ドームです。

 

今の今まで忘れていたのですが、この原爆ドームは私の中の忘れられない恐怖の思い出なのです。

 

心に聞いてみます。

「心よ、なぜ私は原爆ドームが怖いの?」と聞いてみると、心は「あなたが原爆ドームを見て感じたことは、もしかしたら古い記憶かもしれません。だけど新しい記憶になった時に思い出すことはきっと、あなたは“人は人を傷つけるようなことをしない”でしょう」と答えてきて、ああ、そうか。私は、人が人を傷つけるようなことをしないと心のどこかで思っているから、だから戦争の話や殺人事件やいじめの話が怖いんだなと気づきます。

 

これが今回の話のどこに繋がるのかと言うと、きっと「人は人を傷つけない」を前提に生きていると、「私が損をする」ということなのかもしれない。

この場合の「損」というのは、あらかじめ定められた「損得」の損なのではなく、「私が理不尽に虐げられる損」なのでしょう。

 

それが現在の「運が悪い」という状態で物事の表面に現れてきた時に、私は「自分の行動を改善しよう」とするのではなく、「人によってもたらされた悪運は人にお返しするのではなく、それをエネルギーに嫉妬を跳ね返す方が良いのではないか」と、そう心が言っているような気がするのです。

天高く肥ゆる馬

天高く広がる青空と雲を見上げた時、私は「この世でひとりぼっち」を体感していることに気づきます。

 

その「ひとりぼっち」とはとても心地良くて、だからずっと一人で秋の風を受けたい気持ちになっています。

 

今、私にはお金の不安があったり、対人関係の不安や悩みがあったり、将来を心配する思いがあったりと、凪からは少し遠いようなところにいたりもします。

 

だけど「凪」を思い出した時に感じる秋の風のように、私の心の中にはいつでもおだやかな風を吹かすことができます。

 

その方法はただ『凪』と思うだけで良いということなのです。

 

ただ『凪』と思うだけで、あらゆる不安が沈殿していって、心の奥底の方へと広がって沈みます。

 

すると、ちょっとした刺激で「不安」が舞わなくなるから、心の中に沈殿した「不安」は静かに静かに底へ溶けだしてやがて消えていきます。

 

その「不安」は、きっといじらないことで心の奥底で沈んだまま、忘れ去られていくのでしょう。

 

そうして忘れた「不安」は私の中で糧になり、明日の生きるエネルギーになります。

 

どうやってエネルギーになっていくのかというと、怒りと同じで「不安を原動力にして動くこと」なのかもしれません。

 

ただ「不安」を原動力にして動くと、それこそ焦燥感から焦って失敗したり、取り繕って墓穴を掘ったりするのかもしれません。

 

だけど「凪」の底に沈んだ「不安」なら、慌てず急かさず冷静に物事を見極めて不安に対処できるのかもしれません。

 

これがどのように違うのかというと、単なる「不安」だと脳内が発作を起こした状態になります。

だけど「不安」があってもトラウマ的な気持ちが落ち着いた状態であるのなら、「不安」があっても「不安」に囚われ過ぎて焦って「あれもこれも!」とやっちゃわないことなのです。

 

一個一個淡々と取り組むことができると「ああ、脳の発作が収まって凪の状態だから、一つひとつ冷静に取り組めるのか~」ということが分かってきます。

 

発作状態だとどうしても「今すぐなんとかせねば!」と先のことはどうでも良くて、「今の不安を今すぐ消さないと!」とそんな方向に行きがちなのではないでしょうか。

 

発作状態が何も悪いわけではありません。

じゃあ、何が問題なのかというと、その発作状態で我を見失って自分を制御(コントロール)できなくなってしまうことです。

 

じゃあ、なぜ自分をコントロールできなくなってしまうのが良くないことなのかというと、そこには「偽りの快感」が存在しているのでしょう。

 

「偽りの快感」というのはその名の通り「偽の快感」で、本当は居心地が悪いのにそこを「居心地が良い~!」と思い込んでいるような状態です。

 

つまり「偽りの快感」があることで「本来の自分が感じている快の感情」というのが歪められてしまいます。

歪められてしまうと何が起こるかというと、「本当の快とは違うことを求めてしまう」ようになってしまうのです。

 

「本当の快とは違うことを求めている状態」では、脳内の凪を感じられません。

だからずっと発作状態の脳内で「うわ~!」とジェットコースターに乗っているような気分になって、そこから降りれなくなってしまうのです。

 

そんなことを経験しながら、人は「ここが居心地が良い」という場所を求めて生きていきます。

 

「私の本当の居場所は?」ともし疑問に思っていらっしゃる方がいるのなら、心に聞いてみても良いかもしれませんね。

「心よ、私の本当の居場所はどこ?」と尋ねてみると、心の返答は「どこでもない。あなたが“心地良い”と思うところなら、ここでも良いしどこでも良い」という適当な返事が返ってきます。

 

「心よ、あなたが思う“心地良い場所”ってどんなところ?」と聞いてみると、心は「そうですね、私にとって“心地良い場所”というのは、あなたが何も考えずにぼー…っとしている時のように、おだやかな風が頬に当たって、明日のことも夕飯のことも何も考えずに、ただただ河川敷の風を頬や体や服がなびく感覚を感じることなのかもしれません」と教えてくれます。

 

私にとって、河川敷の風というものはどこか懐かしく、そして自分の居場所を確立するような場所であると思っています。

なぜならそこには障害物がなく、ただ夕陽が落ちる光景とおだやかな流れの川とそこに映る光の反射を感じながら、私は髪が風になびくにまかせて、ぼー…っと思考を置き去りにしていくのです。

 

そうすることによって、大地と一体になった感覚を得て、焦燥感や未来への不安を手放し、ただただ風に身を任せていると、やがて夕暮れの陽が落ちてあたりが真っ暗になっていきます。

 

すると私は自然と「帰らなきゃ」と自転車にまたがって、家へと歩みを進めるのです。

 

 

待ち人来ず。

おみくじで「待ち人来ず」とか「待ち人必ず来る」とかそんなことを書いてあって、「待ち人」って要は恋愛対象の人なのかなと思っていました。

 

だけど広くは「あなたの人生に影響を与える人」がもうすぐ来ますよとか来ませんよとか、そんなことを勝手におみくじは教えてくれるのです。

 

もし本当に自分の人生がおみくじ一枚で決まるとしたら、私にとってそんなに楽なことは何もないでしょう。

 

明日の夕飯も今日食べたご飯も、今日使うお金の額も誰に会うか誰と喋るか、そんなことをいちいち自分の脳で考えて答を出すのは疲れてきます。

 

だから「心」に聞いたり指を振って中指ビンゴで確かめたりすると、「もうそれ以上悩まない」というふうに持っていけます。

 

私はこれまでも散々悩んできて、常に頭の中でバックグラウンドでいくつものウィンドウが開いたままになっていました。

 

だからパソコンの電源を切ったらそのウィンドウが全部閉じてしまうように、私も自分の脳を休めることが出来ずに常にフル回転で考えていたもんだから、いつも何か消耗していました。

 

だけど最近は「ま、あとで心に聞けばいっか」と思えるし、FAPをすれば一瞬で答が出るので、ムダに最適な答を出そうとウジウジ考えることが少なくなりました。

 

だから、たとえばさっき私は美容院に行ってきました。

しかしあろうことか、お釣りとレシートをもらいませんでした。

 

FAPをやってもらってからはこういう事態になった時に咄嗟に「お釣りもらってませんけど!」と言える強気になってたのですが、どうも最近また言えなくなってしまっています。

 

なので心に聞いてみましょう。

「心よ、どうして私はお釣りをもらっていないことを咄嗟に言えなかったのですか?」

そうすると心は「それはあなたが遠慮して…って普通は思うじゃない。だけどそれは違うくて、普段あなたは怒りを原動力にして生きてきていたから、その怒りが抜けてきた時に“ま、いっか”と思ってあなたの無意識に任せることができるようになる」と言ってきます。

 

確かにインサイトで治療を初めてから私は「人に反論できない自分」を恥じていたことを知って、何でもかんでも疑問に思ったことはガツガツ言える人になっていました。

 

でも、それは本当に望んでいたことだったのか?

 

私は幼少期から「嘘吐き」でした。

どんな嘘を吐いていたのかと言うと「他人の話に上手く合わせる嘘」を吐いていました。

 

それは他人に反論できない自分であったり「いや、そうじゃなくて」と言うと相手が傷つくと思っていたり、また「相手の話を分かっているふりをしないと!」というムダな共感能力から来るものでした。

 

実はこの「ムダな共感能力」が最近になってまたぶり返してきてしまっていて、以前散々「知ったかぶりはいかん!正直に生きねば!」と思って異常に正直に生き過ぎてドン引かれていました。

 

で、知ったかぶりをしないだけならいいのですが、言わなくてもいいことまで曝け出すというか、ただの暴露女になっていたんですね。

 

あけすけと理想の自分は違うかったわけです。

 

それで、異常に正直に生き過ぎた私はそれがそろそろ「美しくない」と思ったからなのか、今度は過剰に「知らないふり」をするようになったのです。

 

どういうことかというと、相手に「マウントを取っている!」と思われないように、精一杯「物事を知らないふりをする」のです。

 

実はこれも昔からしょっちゅうやっていて、私としては「何でみんなそんなことも知らなかったんだろう…私は昔から知ってたけど」みたいな嫌な感情があって(笑)でもそれを出すと相手に「マウントを取られた!」と思われるのが嫌だった。

 

だから今日も美容師さんが「僕、アップルウォッチ欲しいんですよね~」と言った時にさも常識人の顔をして「そうですよね~高いですもんね~。持ってたら絶対恰好いいですよね!」という全力で話を合わせにいきます。

もちろん相手は私が「自分と同じくアップルウォッチを持っていない人」と認識します。

 

だけど私は数年前からアップルウォッチを持っているし、それに飽きて今は使ってないという。

でもそれを美容師さんに言うと「なんやコイツ、自慢してきてるんか」と思われるのが嫌で黙っていると、たいていの場合相手が上から目線になります。

(この美容師さんは全然上から目線じゃない人なので、そんなことないと思っていますが…お釣りを渡し忘れないでほしい…笑)

 

そうやって私は「相手が不快にならないように」いつも本当の自分を隠して会話をしてきました。

だからきっと相手に誤解されることが多くて、私は何にも知らないバカだと思われているかもしれません(笑)

 

だけど「無知なバカになる」というのは、昔の私の夢でもあったのです。

「どうして私は人より知識があるのだろう…」「人より難しい漢字が読めるのだろう…」そう思った時に、「物を知らない他人」にイライラしてきます。

 

私は小学生や中学生の頃、広辞苑をあ行から順に別のノートに全て書き写して写経のようにしていたことがあります。

それで虹の色の種類や覚え方も知っていたし、難しい漢字の読み方も知っているし、季語やその他のこともたくさん人よりも知っていたのかもしれない。

これを書いている今も「え、普通人は虹があだきみああむなの知ってるよね?」という不安があるぐらい、自分の中の常識を他人が知らないことに驚く方が多かったのです。

 

だからか「私がバカだったら、他人と話が合う」と何度思ったことか。

だけど、自分が知ってる話をさも自慢げにされることほど苦痛なことはないと知ったのです。

 

そうして知ったら、たぶん怒りが出てきてしまったのでしょう。

だけど「私知ってるねん!」とマウントを取ったような形になることにも疲れてきたわけなのです。

 

だから本当は、自分の知らないことを知っている人から「教えてもらう関係」というのがちょうど良いのかもしれない。

 

 

母親との利害関係

母親との利害関係というと、私が損をして母親が得をするとか、母親が得をすることによって私が搾取された気持ちになることを言うのかなあと心は言っています。

 

これが何なのかというと、無条件の愛をくれるはずの母親が「私に得を求めている!」となった時に、私の中で発作が起きます。

 

どんな発作なのかというと、それは「母親が私から搾取しようとしている!だから私も自分を守るために破壊的なモンスターにならなければ!」と変身することです。

 

そうして「破壊的なモンスター」に変身した私は、母親に対して憎しみや恨みをぶちまけることで母親を退治しようとします。

 

だけど母親からは何倍もの攻撃力で返ってくるので、私は母親に太刀打ちできません。

 

だから母親にとって「良い子」の自分になって、母親の目に映る「私」が母親に害をなさない存在であると見せる必要があります。

 

そうすることで、母親からの嫉妬の発作や孤独の発作から逃れられると、私は「自由に生きられている気」がするわけです。

 

多重関係の話でいうと、私は長年「母親のカウンセラー役」をやってきました。

母親が愚痴を言ったら丁寧に聞いてあげて、母親が怒ったらなだめるような言葉を掛けてあげて、母親が発作を起こさないように自分を守りながら生きてきたのです。

 

そうやって身についた「護身術」のようなものがあって、それが「母親との関係」で再上演されるトラウマの傷を見ないように隠していた私の生き方だったのかもしれない。

 

そんなことを思いながら、「母親」と思い浮かべると、私は人生の大半を母親と家族と喧嘩してきた記憶しかないのです。

 

幼少期は妹と口を開けばしょっちゅう喧嘩をしていて、父親や祖父母からは怒鳴られ、母親には無視される。

私は家の中で腫物扱いをされていて、テレビのある部屋でみんなと一緒にテレビを見ることができなかった。

 

だからか、そこで思い出したのは「私はテレビが嫌い」ということなのです。

 

今の彼氏は部屋につくなりすぐテレビをつけたがっていて、私はテレビが大嫌いなので、部屋にテレビを置いていません。

 

なぜテレビが嫌いなの?と言われたら、さまざまな音や人の声が不快に聞こえるテレビが「うるさくて」嫌いでした。

「私は静かに暮らしたい」とそう思っていたのです。

 

だけど、もし、私が幼少期から今まで「家族団欒でテレビを見ることが出来なかったトラウマ」があるのだとすれば?

私がテレビを毛嫌いしている理由も分かります。

 

私は、人との一体感が、本当に持てません。

人と親密になることが、身の毛もよだつほど、吐き気がするほど無理でした。

 

なぜなら、「人からプレゼントをもらう」というだけでも捨てたくなるし、触れられたくないし触れたくないし、自分でも「そこまで人を嫌わなくても…」と正直思います。

 

だけど、それがもし、家族との関係で構築されたトラウマで、人と親密になれないのが私の人生のテーマだとすれば、「喧嘩をせずに良好な関係を構築する」ということほど私にとって難しい問題はありません。

 

私は、人と争いたくないのです。

だけど、私は人と争ってしまいます。

 

それは時に、相手が嫌がることを言ってしまったり、相手をわざと怒らせるようなことをして愛情を試すような行動をしたり。

 

だけど、私は人に愛されたいと思っていないのです。

私は愛されなくてもいいから、一人で淡々と静かに暮らしていきたいのです。

 

そう考えた時に、「母親」の支配があったからこそ私は「人と積極的に」関わり、そうして「人の話を聞き」、そしてまた「人を愛すること」を知ったのです。

 

私は、母親に愛されて育ちました。

それは生まれた時に一度死んだからかもしれないし、母親が私に執着している理由は分かりませんが、私は過剰なほどたくさん母親に愛されて育ってきたことを今さら知るのです。

 

私はずっと、「母親に愛されていない」と思って、母親に怒鳴っては愛を確かめようとしていたのかもしれない。

「そこに愛がない」ことを何度も証明した挙句、私は一人ぼっちになっても母親を忘れることができませんでした。

 

でも、もし本当に私が「愛を求めていない」のであれば、今までのことに全て符号がいきます。

「私は誰にも愛されたくなかった。ただそこには静寂だけが広がっている空間で、静かに私だけの生を感じられば良かった。」

 

「だから人との一体感なんて必要ないと思ってた」