無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

お題は適当に決めて良い。

私は幼少期から「人が怖い」と思っていたわけではありません。

どちらかというと人が好きで、「人見知りしない子」だったんです。

 

だから両親がよく「知らない人についていって誘拐されたらどうしよう…」と思うぐらい、とても可愛くて、知らない人にもニコニコしちゃう子でした。

 

それがどこをどうやってこんなトラウマまみれの、というか「人が怖くて嫌い!」といつから思うようになったのか定かではありませんが、物心つく頃には常に陰鬱な気持ちと共に生きていました。

 

時には自殺したくなったり、時には暴言を吐いて当たり散らしたり。

多分ホルモンバランスがめちゃくちゃ乱れてる人だったんだけど、「生きづらい」という答を見つけるまでには相当な時間を要しました。

 

私が「心に聞く」を出来るようになってからは、かなり生きるのが楽になってきた気がします。

 

だけど、それでも時たま「息苦しい!」という不安感に襲われては、「息が出来ない!」と何かに溺れてしまうのです。

 

そう、何かに溺れている時と言うのは、藁をも縋る気持ちで必死になって人に助けを求めます。

「誰かに助けてほしい!」と思いながら、「誰かに助けを求めるみっともない自分」というものが頭の中に浮かんでは消え、どうしたら楽になれるのか分からないまま数日が経ってしまいます。

 

私はトラウマ治療を始めようと思ったきっかけは、きっと、自分が楽になった方法で救える人がいるのであれば、というささやかな気持ちだったと思います。

 

だけど、自分が「何とかできる!」という万能感にまみれてしまうのも、本当はとても怖いのです。

 

だから、いつも謙虚なふりをしてかわしているけれど、自分の本当の能力を認めてしまった時に、謙虚さを忘れてモンスターになって万能感を振りかざしてしまう自分が怖い。

 

そんなことを思いながら、意識と無意識の狭間で、私は「何が正しくて、何が間違っているのか?」を未だに気にしていることに気づくのです。

 

カウンセラーとしての正しい姿は?

私はカウンセラーになんかなっても良いのか?

 

そんな罵倒を自分の中で思い浮かべながら、私は淡々と日々自分の生活を過ごしているように見えて、本当は何かに怯えている自分をひた隠しにしてきたのです。

 

この場合の私の「能力」というのはカウンセリング能力ということではなくて、心は「あなたの無意識を信じる能力」だと言っています。

 

じゃあ、無意識を信じるなら、万能感にまみれることはないんじゃない?と心に問いかけてみると、心は「そうだね、それはあなたが感じていることをそのまま私に聞いてくださったら良いけれど、もしあなたが心に聞けなくなってしまった場合、それはあなたの暗示の力が強いから」と言ってきます。

 

「心よ、どんな暗示?」と聞いてみると、心は「そうですね、私が思うのは、あなたは暗示の力を利用して嫉妬をエネルギーに変えようとするように、母の呪縛から解かれるために私を利用すると良いでしょう」と言ってきます。

 

「心よ、今の私に母親の呪縛はありますか?」と聞いてみると、心はこう答えます。

「今のあなたにも過去のあなたにも、母親の呪縛はありません。なぜならそれは、あなたが見てきた世界の中で真実は何もないから」と言ってきます。

 

「心よ、なぜ真実は何もなかったのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが思ったように生きるために誰かを犠牲にするのは違うと思っているから、だからあなたは自分が好きなように生きるのに抵抗がある」と言ってきます。

 

(ちなみにここで思い出しましたが、大嶋先生は常々「心とのやりとりはあまり人に言わない方が良い。嫉妬されるから」と仰ってるのを承知でブログの記事にしています。云わば「ブログの記事用の心」仕様になっています)

 

「心よ、それは支配ですか?」と聞いてみると、「はい、そうです」とあっさりと返ってきます。

 

心は、私の答えてほしいことをスルーして別のことを言ってくるけれど、それも何か無意識が起動する術なのかなあといつも感じています。

 

そう、無意識を起動させるのに、私たちは本当は「無意識」と思うだけで良いのです。

その「無意識」と思った瞬間にどんどんと自分の中のしがらみから解放されて、ますます自由に羽ばたく自分を想像してみる。

 

そこには、何かに気を遣ったり、誰かにおだてられて良い気になっている自分を押し殺したりと、そんなことをせずに「あるがままの自分」を受け入れられるのかもしれない。

 

そんなことを思うと、私はいつもこのブログで自分が何を書いているのか分かっていないけれど「分からないままである美しさ」というのがそこに存在しているのかもしれない。

 

もし、誰かが困っていて手を差し伸べてあげようとしても「自分なんか…」と思って、差し伸べられない人がいるのなら。

私はこう思うんです。

「誰かのために働きかけるより、自分を助けてあげなさい」と。

 

もし、誰かを「助けたい!」と思って苦しんでいるのなら、そこにあるあなたの心がもしかしたら苦しんでいるのかもしれない。

 

「誰かを助けたい!」と思う心自体は素晴らしく立派なものだけれど、「その人の無意識を信頼する」と思った時に、「あの人ならちゃんと立てる!」とそう信じていると「何も口出しする必要がない!」となるわけです。

 

私は、自分が腹立たしい理由の一つに「何でもかんでも人に喋っちゃう!」というのがあります。

もちろん人のことはベラベラ喋りません。

私が喋ってしまうのは『自虐ネタ』です。

 

自分の「これを話したら人に引かれてしまうだろう!」という部分を、惜しげもなくサービス精神で出してしまう節があります。

それで何度失敗したことか…。

 

それを言わなかったら「理想的な完璧な女」であったし「尊敬すべき優しい人」でいられたのに、わざわざ自分を下げるような発言をしてしまうのは、どんな私でも受け入れてもらえるという自惚れでもなく、自信のなさからの自虐でもなく、ただただそこに『無意識が働いている』となっていたのでしょう。

 

だから私は、そうやって自分が自虐をするたびに思うのです。

「相手の中に見る私の理想像というのは、私が作り上げた幻想なのである」

 

だから私は、自分が自分で作り上げた「理想の私」をぶち壊すために、自虐をして笑いを取ろうとするのです。

これは何てピエロ!と思うと同時に、見事に破壊欲動と性欲動に繋がっているなあと思うわけです。

 

ところで、今日のタイトルは今日の私に言っているのか、それとも本当にこのタイトルのブログなのかどっちなのかを心に聞いてみると、心は「どっちでもない。あなたの心はあなたの行く末を知らないから、何とでも言える。だから“適当に生きて見れば?”」とそんなことを提案しているらしいのです。

 

もし、世の中のみんなが適当ならば、私も適当に生きれたのかもしれない。

だけど、私が適当に生きられないのは、世の中にルールがあって社会の決まり事の通りに暮さないといけなかったり、誰かの約束を破ることがないように気を張ったり、ある程度の同調圧力が必要なんだろうけれど、私はその適度な同調圧力に過剰に反応してしまうのです。

 

それはもしかしたら昔のトラウマで「同調圧力を私に掛けるな!」と抵抗しているのかもしれないけれど、どちらかというと「緊張して息苦しい!」と思う気持ちの方が大きかったのです。

 

適当に生きれなくて苦しんでいる人へ。

約束を破っても人は“関係の可塑性”というのを持っていて、これは必ず真ん中に戻ってくる“恒常性”と同じような機能をしているのではないかと心は言っています。

 

だから、私のように遅刻魔であっても、誰かの話を聞かずに遮っても、社会のルールを破って人を傷つけるようなことがなかったら、そんな万死に値する!みたいなことにはなかなかならないので、だから安心して生きてください。

 

あなたが生きている世界は自由で美しい。

そうして、あなた自身も美しく輝くために、自分のために生きて、毎朝髪を梳かしてご飯を食べて、「適当に生きる」を実践してみると良いかもしれませんね。