無意識と私と羊雲に乗って

催眠療法と無意識さんに魅せられた人。

夜通し起きてると認知能力が下がる。

まあ、当たり前のことだと思うのですが、夜通し起きてると認知能力が低下するのと同時に、体の痛みも感じやすくなると思います。

 

普段は何とでもないことが「痛!」と思ったり、人に対してイライラし過ぎてしまったり。

 

「寝ない」ということで起こる弊害はたくさんあると思います。

 

だから「睡眠」は食事の次に大事だと思っていて、でも世の中には寝れない人がたくさんいると思います。

 

なぜ眠れないのかの理由は人さまざまあるでしょうが、一番の原因はやっぱり「眠れないことによる心理的弊害」なのではないでしょうか。

 

まず、焦ります。

布団に入ってもなかなか眠れないことで「明日ちゃんと起きれるかな」とか「肌の調子が悪くならないかな」とか。

そうしてどんどん時間が経っていくにつれて、より一層焦りが激しくなります。

 

たとえば、「明日のプレゼン」の心配がグルグルと頭の中で回っていたり、「今日のあの人の態度はちょっと酷かったな」ということを思い出したり。

そうすると今度は色々気になっちゃって、スマホを手に取ってポチポチし出してしまうかもしれません。

 

そうやって気を紛らわしているように見えて、どんどん眠る時間が遅くなっていくと、だんだんと自分にイラついてきます。

 

そして、ようやく眠りについたらまたすぐ起きなきゃいけなくて「なんだかなあ」という毎日を過ごすことになるのです。

 

だから私たちは日々「早く寝る!」ことを目標に頑張ったりしても、どうしても眠るのが困難な人もいると思います。

 

そんな時に私が試してみるのは「あえて寝ない」ということです。

 

これは巷でも経験されている人が多いかもしれませんが、「寝ない!」と思うことで逆に「眠くなる」ということを誘導しています。

 

「そんな簡単に眠れるかよ~」と私自身も思っているのですが、意外と「お、眠気を感じてきたかも」というのが分かるのです。

 

暗い部屋の中で布団にくるまっていても爛々と目がさえてきて、暗闇の中にいるフクロウみたいになってしまっている時、いっそのこと部屋の電気をつけちゃいます。

 

そうすることで、自分の体内の「眠らなきゃ!」という焦りのスイッチを一旦オフにします。

 

そして「眠っても眠らなくても良いんだよ~」という環境を自分に与えることで、体をリラックスさせます。

 

そう、長年すぐ眠れなかった私は「眠ることがとても緊張する!」となっていたのです。

 

これはインサイト・カウンセリングにカウンセリングをお願いしてからまだ日が浅かった頃に取り扱ってもらった問題だと思います。

 

私の意識では「小学生の頃にスキー旅行に行く時に、夜中に出発するから眠くなくても昼間に無理やり眠らされるのを経験した。だから眠れない」というのが問題になっていると思っていました。

「眠れない」と意識的に考え過ぎている状態ですね。

 

しかし、心が言うのは「あなたは飛行機の爆撃音が怖くて眠れない」でした。

 

そうです、小学生の頃に原爆を学ぶためにたくさんの映画を小学校の夏休みに観させられました。

その時から確か、「飛行機が頭上を飛ぶと爆弾を落とされるかも!」という恐怖が激しくあって、眠れなかったのです。

 

とても怖かったと覚えています。

「今、爆弾が落ちて死んだらどうしよう」

「今、爆弾が落ちて熱い思いをして焼け死んだらどうしよう」

そんな恐怖が私の頭の中をグルグル回っていて、そしてやがて強迫行動に出ます。

 

“寝る前の儀式”というのがあって、最初はその儀式は両手を組んで布団の中で「神様、どうか飛行機が爆弾を落としませんように」と祈るだけでした。

それがだんだんと「ベッドの上を一周する」とか「祈りの文言を付け加える」とかするうちに、めちゃくちゃ長くなっていたんです。

 

だから眠ることができなくて、目が爛々とさえていて、それでも私はその儀式をやめることができなかった。

 

そんな異常行動(だと今の私は当時の自分を振り返っているのですが)をしているうちに、だんだんと希死念慮と呼ばれるものがひどくなり、小学校中学年の頃には枕元に遺書を置くような小学生になっていました。

 

今、ふと思い出して、「ああ、私はいつの間にか“死にたい”と思わなくなったなあ」と感じています。

つい最近まで絶望的な気分になっては呼吸が乱れて死にそうになっていました。

 

本当にしんどい時って、心に聞こうとか遺伝子コード唱えようとかそんなの全然効かなくて、ただただ「苦しい!助けて!」となっているのです。

 

私は昔、とても優等生でした。

成績は常に上位かトップ、そして頭が良くて優しい怒らないという性格でした。

今、並べてみるとあぶない感じがヒシヒシと伝わってきますね~。

 

きっと、何かにものすごく我慢していたのです。

 

で、タイトルの認知機能の話が全く出てこなかったので、心に聞いてみましょう。

「心よ、タイトルと“眠るのがこわい!”という話はどう繋がっているの?」と聞いてみると、心は「そうですね、それはあなたが“知能のコンプレックス”を持っていることに繋がっているのかもしれませんね」と言ってきます。

 

「心よ、どう繋がっているのですか?」と聞いてみると、心は「それはあなたが“自分は頭が悪い”と思っていることは、もしかしたら生活習慣などでなおるかもしれないということですね」

 

「心よ、それは甘いものを食べたりして退行しているのと同じですか?」と聞いてみると、「そうですね、甘いものと睡眠は密接に関係しているかもしれませんね。だけど今回の問題は、あなたが“眠るのがこわい”と思った時に何が起きているのか?それはあなたが本当に認知機能を下げてまわりと合わせたいから眠れないのか、単純にトラウマで眠れないのか、どちらがあるのですか?」と私に問いかけてきます。

 

私はこの問題に、しばらく悩むことになりそうです。

 

ふわふわ羊雲は誰のもの?

心に私のことを聞くと大抵「そんなことはない」みたいな返答が返ってきます。

 

たとえば「心よ、私はお腹が空いているの?」と聞くと、「それは誰かの感覚」と言われたり、「心よ、私は怒っているの?」と聞いてみても「それは今思い出した人の感情を受け取っている」と言われたり。

 

心理学用語で言うと、『リフレーミング』に近いことをしていると思います。

自分の思い込みの枠から抜け出す。

 

だけど、もし私のこの今感じている感情が全て「他人のもの」だったらのならば、私は一体何なのか?何も感じていないのか?

では、生きている喜びとかそういうものもないのか。

 

以前、大嶋先生が講座の中だったと思うのですが「人の感情は波のようなもの」と表現されていました。

波だったか風だったか、どこかから吹いてきたものが草原にザーッと波立って草をなぎ倒していくあの状態です。

 

誰かから流れてきた感情が私にも伝染して、そしてまた他の人にも伝染する。

 

潔癖な私は「人の不快な感情なんて受け取りたくない!!」と思ってしまいます。

だけど、その「人の感情」を受け取らないと、人と一体感を保てないのかもしれない。

 

誰かの感情を受け取った時に、「ああ、私はこういう感情をしている」と思っていたのに、他人も同じく「あ、私と同じことを思っていた/感じていた」と知った時は、喜びがあります。

 

私はその喜びを感じるために「不快な感情を拾っている」と思うと、排除したくなるようなネガティブな感情も何かの役に立っているわけなんです。

 

「共感能力」とか「HSP」とかさまざまな言葉で「人から受け取っちゃう人」というのが説明することができます。

では、なぜそのような「敏感な人」が(能力的に)生まれてくるのか。

そんな能力持っていても苦しいじゃないか!と思う人も中にはいるのかもしれない。

 

「人から受け取っちゃう敏感な人」というのは、羊雲に例えると「羊のようにまとまってふわふわ浮いている雲」ですが、その学術的な名前は「高層雲」であり、空に広く薄く広がっている雲です。

 

この高積雲が大きくなっていくと、地上が暗くなったり雨が降ったりと言われます。

 

一人だったら何ともなかった感情も、何人かのグループで集まると大きな波を生み出します。

その生み出された波がどこに行くのかは、風の流れに任せることで決まっていくのかもしれない。

 

だから空にふかふか浮いている羊雲を「私のもの!」としない限りは、やがてその群はどこかに移動して、誰かの頭上で発達したり消えていったりするのかもしれない。

 

そうすることで、誰の頭の上にも平等に雲は広がっていて、季節によって入道雲に変わったり、イワシ雲やその他の雲に姿形を変えて移動していきます。

 

あの真っ黒な雷雲も、今にも雨が降り出しそうな曇り空も自然と発生して、そしてやがてどこかへと消えていきます。

 

感情というのは名前を付けた瞬間に消えてなくなったりします。

だからあなたの頭上の雲も「怒り」であったり「不安」であったり「恐怖」というような言葉に変えてみると、みるみるネガティブな感情が消えて行って自分らしく生きれるのかもしれません。

 

それと同じで、心に「相手のもの」と聞いたときに「あの人の感情」とカテゴライズすることで自分の自己免疫が暴走せず、頭痛なども消えていきます。

 

発生源や理由や正当な名前を知ることで、それらの感情の対処方法はみるみる内に変わっていくのかもしれませんね。

打ち上げ花火は夏の夜の終わりに

夏の夜の終わりに見た打ち上げ花火を、あなたは覚えているでしょうか?

 

その花火の最後は、ゆっくりと火花が散って落ちる枝垂れ桜のような花火だったかもしれないし、パチパチと弾けて夜空に消えていく線香花火のようだったかもしれない。

 

あなたが見た花火の種類で、あなたは今この瞬間、何を考え思い馳せているのかを当てることが出来るなら、私はぜひ「枝垂れ桜を眺めていた」と答えたい。

 

なぜなら、それは私の夏の夜の思い出であり、そこから連想される景色や風景は必ず「誰か」と一緒だったものであり、私は多くの人とともに多くの時間を費やしてきた思い出がある。

 

そうなると、今の自分は今の今まで関わってきた全ての人と繋がって私自身が作られており、それが故に「自分を見つける」ということが大変骨が折れることだったのかもしれない。

 

この「自分を見つける」作業を行っている時、私は多くの人を見て「あれが私だ」「これが私だ」とその多くの人の中に私自身を見つけようとする。

 

そうすることで一体感を得て、安心した気になっているのかもしれない。

 

「本当の私」を探しに行く時に、私は少からずとも「誰かに呼吸を合わせた時に感じる不快感」のように、もっと奥深く入って自分を知ることは、何かのぞいてはいけないものを覗き見しているような、そんな感覚に私をさせるのです。

 

すると私は「自分の感覚」を見つけるために深淵を探らないといけないから、その深淵を見ようとして「誰かの穴」に落っこちてしまったりする。

 

それは大抵「母親の穴」なんだけど、私はその穴に落ちた時に必ず「この世が大嫌い」になるのです。

 

昔、「砂の女」という小説を読みました。

安部公房の小説です。

 

私は本当のことを言うと「砂の女」よりも「とらぬ狸」の話の方が好きなんだけど、この「砂の女」は衝撃的だった。

 

もし私があの世界に迷い込んだとしたら、それこそ順応できるか分からない恐怖はあるけれど、私は自分を保っていられることが出来るのか。

 

私は、未知の世界に迷い込んだ自分を想像した時に、私より遥かに彼氏の方が順応性が高いことに気づくのです。

 

もし、あの世界に取り残された時、真っ先に自分の生きる道を模索するのは彼の方だろう。

私はというと、恐らくその世界を堪能することなく、悲劇的な自分を嘆くのかもしれない。

 

私は何よりも変化が苦手です。

変化するぐらいなら、私は誰かに変化して欲しいと望むのです。

 

そうすることで「母親の穴」から抜け出せない理由を作り、いつまでも守られた市松人形のように、私はそこに佇んだまま誰かの帰りを待つのです。

 

私は、自分に構ってくれる人が好きで、自分に興味を持ってくれないと「私のことを好きじゃない」と思ってしまう病のようなものです。

 

その病に蝕まれた時、私は自我の崩壊を経験し、「私が私でなくなるその瞬間」まで、私は自分が生きてきたこの宇宙について考えるほどの余地は残されていないのでしょう。

 

私は「自分が自分でなくなるその瞬間」を打ち上げ花火のように「華々しいもの」と思っていたけれど、多分それはただの発作で、本当は「自分が望む自分」になれた時に起こる凪の世界を経験することで、「私自身の知らない世界」を受け入れられるのかもしれない。

 

そんなことを思いながら、私は「今日のこのブログもさっぱり意味が分からないなあ」と思うので、最後に心に聞いてみたいと思います。

 

「心よ、あなたは結局何が言いたいの?」

心は「そうですね、私はあなたが〝自分の意識の世界〟から出るその瞬間に見る光景が、たとえば何億何千の人と繋がっていたとして、最もそれを体感するのに近いのは〝無意識の世界〟に触れた時に起こる〝イメージの世界〟なのです。」

「そのイメージの世界は打ち上げ花火のように、あなたの記憶にあるかもしれないし、ないかもしれない。もし、あるとしたら、もう少しそのイメージに手を伸ばした時に感じる感触や視覚や聴覚を頼りに私に委ねなさい」

「そうすることで、今まで見えなかった世界が見えてきて、そうして私に委ねる心地良さを知ることになるでしょう」

 

打ち上げ花火は今日も私の心の中で上がります。

それは誰かと見た夏の記憶かもしれないし、これから別の誰かと見る新たな夏の思い出かもしれない。

 

それはきっとかけがえのない一瞬であり、無意識が教えてくれた最高の瞬間なのかもしれない。

あなたの人生の行方

「あなたの人生はどこに行ってどこで眠るの?」ともし問いかけられたら、私はちゃんと答えられるのか不安です。

 

なぜなら、日頃そんなことを思ってダラダラ過ごしている訳ではないから。

 

私は一体「誰」で「どこに向かって」「何をしたいのか」そんなことを簡単に明確に答えられたら、私は人生でこんなにも悩まなかったのかもしれない。

 

私は、未だに自分が「誰なのか」分かっていないし、何を目的に生きているのかも分かっていない。

 

ただ、誰かに求められたら答えて、苦しくなったら何かに救いを求め、そうして日々のんべんだらりと自由に生きているつもりなのです。

 

そうやってムダに時間を過ごしている時間もあれば、「何かやらねば!」と急に焦った感情になる時もあります。

 

残りの人生の年数を数えてみても「到底足りない!」と私の意識は悲鳴を上げて、そうして「今できること」もついにはほっぽり出してしまうのです。

 

私は大嶋先生の言うところの「何も出来ない完璧主義者」で、何かしようと思っても些細な物事が気になって手をつけられなかったり、確実に成功が約束されていないと取り組む意欲もなくなってしまうような、「いつから私はこんなにヘタレになってしまったんだろう」と思うこともしばしばあります。

 

そうやって人生に意味を求めては、挫折して、自分の「生きる意味」というのを見つけられないまま今日まで来た訳です。

 

そうなると私は、「名前を残すことが有益」と思っているのか、なんとか有名になろうとする方向を模索してしまうのです。

 

「名前を残すこと」にどれぐらいの価値があるのかは、分かりません。

だけど、自分の自尊心を満たすことが出来るのはよく分かります。

 

自分の自尊心を満たしたところで何かが変わる訳ではないし、生活が楽になる訳でもない。

私が今すぐ解決すべきことは、この問題の中には隠れていないのです。

 

だから私は毎日を必死に「明日の生活費」のことを考えたり、「あの人が私のことをどう思っているのか」を考えたり、そんなことをしながら日々潰していると、私はある思考にたどり着くのです。

 

それは「私が何も成し遂げなくても誰も困らない」。

そう、自分さえも困らないのです。

 

何かを成し遂げることに関して異常なまでの執着心を持っていて、私は事あるごとに日記を書いては「自分の存在意義」を誰かの中に見出そうとしていました。

 

だけど、私が求めていた「自分の存在意義」というのは、誰かの中にあるものよりも「自分の中にある輝くもの」を手にした時に存分に発揮されることを、私は最近知ったのです。

 

それを具体的に言うと「自己肯定感」になるんだろうけれど、私はそれ以外の言葉で表現すると「ありのままの自分を認めること」となるんだと思っています。

 

「ありのままの自分でいられない!」と思った時に、人は他人の評価に頼ったり、自分以外の何かの存在にしがみついて「あなたは素敵よ」と肯定されたくなる感情が出てくるのかもしれません。

 

そうすると自分はおろか、他人までも巻き込んで「私ってきれいでしょ?」と押し付けてくるような口裂け女のような存在になってしまって、「誰もキレイって言ってくれない!!!!!」と言って怒るのかもしれません。

 

そうすると「他人の人生を生きる」ということになってしまって、自分の感覚が薄れていく。

自分の感覚が薄れていくと、自分の「快・不快」が分からない。

 

そうなると他人と近すぎたり遠すぎたり、適切な距離感で人と関わるのが難しくなって、自滅してしまう。

 

私はいつもこれの繰り返しで、「どうして他人が自分を評価してくれると思ってたんだろう」とそんな自分を恥じます。

 

自分は何者でもない。

お釈迦様でもないし、イエス・キリストでもない。

ただ一人の人として生きるのに、何かの称号が必要なわけではない。

 

ただそこに広がっている凪のように、何かを見つめながら、何かに揺られながら生きる葦のような人生も、また一興なのかもしれません。

夢見る夢子ちゃん

夢を見るということは悪いことではありません。

それが必ずしも実現しないものであったとしても、あなたが「本当にやりたいこと」であれば、あなたはそれをやり遂げられるはずなのです。

 

だけど、もし「やりたいこと」なのにやり遂げられなかった場合、そこには何があるのでしょう。

たとえば嫉妬の問題であったり、無気力になる何か別の問題が隠れている可能性があります。

 

その別の問題の可能性を探るのがFAPで、中指ビンゴです。

 

私はこの中指ビンゴをとても愛用していて、たとえば「ジョギングに行くかどうか」であったり「朝、何時の電車に乗るか」であったり、人生には様々な選択肢があります。

 

その選択肢のひとつひとつに真剣に真面目に向き合うと膨大な時間が掛かってしまって、結局「答が出ない!」となり、当初よりももっと焦ってしまいます。

 

なので、私は中指ビンゴで探った答を元に、いろんなことを考えます。

 

それは今日のご飯であったり、明日起きる時間であったり、本当に様々なものを見ることができます。

 

だからか、私は人生で悩むことが極端に減りました。

 

今までは「あれやこれや」と人生のほぼ全てを「悩むこと」に費やしてきて、結局膨大な時間を使ってもその選択肢が私にとって「正解の選択肢」なのかどうか判別がつかなかったのです。

 

だけど無意識が見せる選択肢はそんな悩みを一掃するように、とてもきれいに美しく輝く未来を私の中に見せてくれるのです。

 

私は時に、中指ビンゴの出した結果を疑うこともあります。

 

だけどそれすらも美しくて、目には見えない「何か」が私の中で作用して、そうして私が想像し得なかった未来へと私を連れて行ってくれるのです。

 

無意識の可能性は、本当に無限大です。

 

その無限大の圧倒的な情報量に驚かされながら、私は無意識の美しさを知るのです。

 

たとえば人が「やりたいこと」が出来なかった時、そこには無意識が働いています。

すると無意識は、あなたが「無理」だと思ってたことすら叶えてくれるように采配してくれているわけなんです。

 

なぜ「やりたいこと」が出来ないのか?

それは、ダイレクトに人が邪魔してきて物理的に時間的に出来ないのかもしれない。

 

だけどもっと広義的な意味で捉えるとするならば、「あなたがやりたいことが出来ないのは、何か意味がある」と考えるのです。

 

そうして、その時に中指ビンゴで手を振って指に聞いてみると、私が思っていた答を次々に棄却していって、一つの答に導いていくのです。

 

そうです、あなたがもし今、やりたいことが出来ないのであれば、指に聞いてみるとこんなことを言ってくるのかもしれません。

「休みが足りないから」「疲れ過ぎているから」

「あなた自身が本当はそれを求めているわけではないから」

 

もしそんなふうに中指に言われてしまったら、私はもう一度「自分が本当にやりたいこと」を中指ビンゴで見つけていきます。

 

そうすることで、今まで動こなかった自分の体が動くようになってくるのです。

 

たとえば今、私が本当にやりたいことは何か中指ビンゴに聞いてみると、指はもしかしたら「あなたは休みたい」であるとか「あなたは人と接したい」であるとか、あるいは「あなたはもっと充実した休日を過ごしたい」であるなどを伝えてきます。

 

そうして中指ビンゴの出した答の通り動く必要は全くなくて、あなたはあなたで「自分の意識」を大事にして良いのです。

 

なぜならそれは「自分の意識」を大事にすることで、無意識と意識のバランスを取り、あなたの生活を豊かにコントロールしていくことが出来るから。

 

恐れないで、あなたが人生で選択肢した答は、あなたにとって全て意味があることのようで、あなたを守っていることなのかもしれない。

水風船/ヨーヨー

よくお祭りに行った際に金魚すくいのように「ヨーヨーすくい」というのがあります。

そのすくい方というと、水風船の先についた細い糸にワイヤーを通してすくい上げるといった方法だったと思います。

 

このヨーヨーすくいという遊びは主に夏祭りの出店で見られますが、私はやったことがありません。

それよりも、綿菓子を食べたりりんご飴を食べたり、焼きそばの美味しいにおいに惹かれたり、何かお腹を満たすようなそんな物の方が私の心の中を占領するのです。

 

いつも「損か得か」を考えて生きているから、知らぬ間にがんじがらめになって人間関係を楽しめない。

「私が損をしないか、相手が損をするか」そのどっちかしかないと思っていたから、人付き合いがしんどかった。

 

どこかでお金の計算や時間の計算をして「どっちがより多く相手に代償を払うか」ゲームのように、「私か相手どちらかが損をする」構図というのが私の頭の中に出来上がっていたのです。

 

このように常に頭の中はフル回転していて、だから「今、何円多かった」とか「この借りは次に返すとか」常に平等であろうとしている割には、お互い平等ではないバランスが出来上がっていたのです。

 

それは大抵、私の自己犠牲から始まります。

私が自己犠牲をして「相手に余分に与えている」という状況を作っていると、ちょっと安心します。

なぜなら、それで相手から糾弾されることはないと思っているから。

 

別に私の方が少々得していようと、そんなことを気にしている友達はいなかったと思います。

だけど心が狭い私は「私が損をしないように、私が先に恩を売っておく!」という謎の駆け引きを先に繰り広げるのです。

 

私は、もうそんな生活に疲れていました。

正直、誰から何をどれだけもらったかは覚えていないのです。

ただ、自分が損をして後で後悔をしないために、「債権を回収しないと!」状態がずっと続いていたのがしんどかったのです。

 

だから私は「自己犠牲をやめよう!」と思った時に、まず人のことを考えるのをやめました。

常に私の頭の中には人が占領していて、ぎっしりと脳内に詰まっていたのでした。

 

だから読書をする時も、電車に乗っている時も、道を歩いている時も、仕事をしている時ですら私の脳内で誰かが常に喋っているのです。

 

これは統合失調的な幻聴ではなく、この場合の喋っているというのは「過去の場面」です。

昨日あの人に言われたことや数か月前に浴びせられた罵声や、そんなさまざまなことがフラッシュバックのように脳内によみがえっては、さまざまなことを私に再度投げかけてきます。

 

だから私は常に誰かと喋りながら誰かのことを考えていて、片時も忘れないのです。

そう、そして常に誰かのことを思い出しているもんだから、自分の感覚というのがないのです。

 

「自分の感覚」と聞くと思い出すのは、「私が痛いとか辛いとか悲しいと感じた時、誰が共感してくれるんだろう」ということです。

別に誰かに共感してほしいと強く望んでいるわけではないけれど、何となくいつも「私は人にばっかり共感していて、共感してもらったことがない」と思っていたのです。

 

なので私はずっと寂しく、自分の「憎しみや悲しみ」を手放せずにいました。

「誰にも共感されないのであれば、話す必要がない」と思って、後生大事に持っていたのです。

 

カウンセリングの醍醐味は「人に言えない恥ずかしい過去を人にさらけ出して、認め合うこと」だと思います。

自分が後生大事に持っていた憎しみ悲しみ辛さといのは、誰かに話すことで手放せます。

そうすると受け取った側の相手にも内省が起こり、そしてお互い癒され合う。

 

だけど、もし内省をしてくれない相手だとしたら、互いに発作を起こして炎上してしまうわけなんです。

「苦しさ辛さ」を認め合えず、不幸の自慢話になってしまうので。

 

なので、大事なことは「あなたが後生大事に手放さずに持っている罪悪感や恨みつらみは、きっと分かってくれる人がいる」と思わずに、ただそこにある苦しみや辛さを認めて、そして「誰かに話すことで“手放す”」と、ただそれだけを思えば良いのではないだろうか。

 

そう、誰かに同じような回答を求めるのではなく、あなたが心から相手を信頼して無意識に委ねた時に、お互いの無意識が起動して「ああ、この人は本当に辛い道のりを乗り越えてきたんだなあ」とリスペクトが生まれるのでしょう。

 

だから、手放すことを諦めないで。

夏祭りのヨーヨーのように、そこにはカラフルな思い出がたくさんプカプカ浮いていて、まだ誰も手を付けたことがないそのヨーヨーを手にするのはきっとあなたで、そうしたらその夏祭りの楽しい思い出の一部として「ヨーヨーすくい」というものがあなたの記憶の中に留められるのでしょう。

 

 

 

夢見る小鹿

人は「夢」を見ます。

それは夜に見る夢かもしれないし、あなたが思い描く「理想の未来」の夢かもしれない。

 

私が今日ここで語る「夢」はどちらかというと後者の「理想の未来」の話ではなく、「夜に見る夢」の話をお送りします。

 

夜に見る夢というのは、記憶の整理かもしれないし、もしかしたら予知夢を見ることもあるかもしれない。

 

だけど、多くの人は「夢」と聞くとどんなことを思い出すでしょうか。

「悪夢」を思い出す人もいれば、「予知夢」を思い出す人もいるでしょう。

そうして一つ一つの夢には、意味があるようでないのかもしれない。

 

たとえば風船が空に浮かんでいて、それを掴もうとする夢を見たとする。

だけど夢の中の私はジャンプしてその風船に手が届かず、だけど風船は空高く飛んでいくこともなく、私の手が届くか届かないかのところでずっとふよふよと浮いているのです。

 

私はなぜか、その風船を「手に掴みたい!」と思って必死にジャンプするのだけれど、全く掴めずに何度も空を切るのです。

 

もし、その風船を掴んだら何かやりたいことがあるのかと言えば特段そんなこともなく、ただ何となく「その風船をこの手に掴んでみたい!」だけど掴めないから「意地でもそれが欲しい!」と欲張りになっているのです。

 

そんな時に夢から覚めると、私はきっと「悪夢を見たー!」と思ってしまうのでしょう。

なぜなら「掴みたくても掴めなかったもの」がそのまま夢の中に残ってしまって、現実には落胆した気持ちだけが続いてしまうから。

 

だから私は「昨日の夢の続きが見たい!」と思って、もう一度あの「風船の夢」を思い出すのです。

だけど何度願ったとしても、あの日のあの時間に見た「風船」は、私には手に入れることが出来ないのです。

 

なぜなら、二度同じ夢を見ることは「できない」と思っているから。

 

だから私は何度でもあの風船の夢を思い出し、そして「この手に掴み取れなかった」感覚を思い出し、そうして「どうしても掴み取りたい」という執念に駆られるのです。

 

そうして私は「昨日見た夢の続き」を望むこともありますし、「もう二度と見たくない!」と思う夢も当然あります。

 

だけどもし「夢」が記憶の整理のために見ているものであるとするならば、「夢」が果たす役割は「何度も同じ夢を見ること」ではなく「私が脳内で処理できない記憶と感情をバラバラになったままにしておかず統合すること」なのです。

 

そうやって「バラバラになってしまった記憶と感情」が夢に出てくるから、私が夜に見る夢はバラバラな感情のまま散らばって、そして私が納得できない終わり方をしたとしても、それはそれで記憶が整理されているのだと思うのです。

 

そうです、トラウマというのは、心の傷を受けた時と同じ状態を何度も再現しようとしてしまいます。

そうして「夜に見る夢」で何度も整理されるよう見ることで、私の中の何かが確実に変わっていっているのかもしれない。

 

だけど「本当の夢」というのは多分覚えていなくて、起きる直前にだけ見た夢が「夢」だけであるというわけではないのです。

 

トラウマを受けおうと、私の心の中で「記憶」と「感情」がバラバラになります。

なぜなら「記憶」の引き出しに「感情」が整理されないから。

「こんな感情、経験したことねーよ!」と心が悲鳴を上げて、記憶の引き出しに整理することを拒絶します。

 

そうするといつまでも脳裏にフラッシュバックする記憶ができてしまい、いつ何時も「突然思い出す!」記憶というのが新鮮なままそこに保存されています。

 

私はこのフラッシュバックがとてもひどくて、「今を生きていない!」という状態に長年ありました。

 

だけどフラッシュバックがおさまってくると、新鮮なトラウマがなくなって、ちゃんと「古い傷」として私の中で処理されていきます。

 

そうすると私は「今を生きて」、ちゃんと楽しいことを「楽しい!」と感じられて、大好きな人と一緒にいる時間も記憶が飛ばずに済みます。

 

そして、その大好きな人とちゃんと時間を積み重ねることができて、過去をもう生きることなく、未来へ向かってどんどん積み重ねていくことができるのです。

 

そうすることで、トラウマの古い傷跡がカサブタになり剥がれ落ちて、私はやがて大人になって歳を取るのです。

 

トラウマによって止まっていた時が動き出し、今目の前にいる人と共に、人生を生きることができるのです。